久しぶりに村上春樹の小説を読んだ。前に読んだのは『国境の南、太陽の西』だったか。そのあと、村上訳の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(ライ麦畑でつかまえて)を読んだのだと思う。
新刊書き下ろしの『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』である。妻が職場で借りてきたのを、又借りして読んだ。それくらいの熱意である。そのわけは、村上春樹特有の洗練されすぎている会話のやり取りや、時々こねくりまわしすぎた比喩が素直に受け取れないからだろう。
どの曲を聴いても何となくおなじみの調子だなあと感じられてしまう、往年のロックスターのような存在だ。だからって、たまに聴けば悪くない。という感じだ。(と、まねして比喩的に表現したくなってしまうのも困りものだ)
たとえば。
《「哲学的な省察は、君の今日の着こなしによく似合っている」とつくるは言った。》
といった、会話だ。ああ、村上春樹は相変わらず安定して村上春樹だなあと思う。
そんな具合で斜に構えて読み出したのは、「喪失」の物語だった。具体的に言えば、高校時代の男女5人組の固い絆を大学時代、理由もなく唐突に失った30代男の喪失と回復の物語である。自分を取り戻す旅だ。
多くの人は30代まで生きれば多かれ少なかれ、人間関係において失ったものがあるはずだ。それが10代、20代で失ったものであれば、傷跡を痛く感じられるのは30代までではないだろうか。いずれにしても、失った何かを忘れていない人にとっては、この小説は身に迫るストーリーであるだろう。主人公が繰り返し独白する自己卑下に多少辟易としたとしても。
村上春樹の小説には色彩や音楽はたっぷりとある。取り上げられた楽曲が急に売れ出すほどの影響力もある。けれど、彼の小説から匂いはほとんど感じられない。今回の小説の主人公の故郷は名古屋市だけれど、名古屋市である理由は、さほど多くはないのではないか。東京ではないこと。多くの地元民がそこから出なくても満足して生きていける都市であること。少なくとも、名古屋の匂いは感じられない。新宿にしたってそうだ。
それが村上春樹の小説なのだろう。精巧で美しい、職人の個性を盛り込んだおなじみのからくり細工のような。《哲学的な省察》や練った比喩のきらきらとちりばめられた。だから国際的に人気が高いのだろうか。
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甘さを抑えた大人向けの小ぶりのチョコレートケーキみたいな小説だった。後味は悪くないし、記憶にも残る。そして、「箴言」が稲妻のようにページに現れる。
《三十分という時間は、十六年ぶりに再会する二人の旧友にとってたしかに短いものだったかもしれない。そこで語られなかったことは数多くあったはずだ。しかしそれと同時につくるには、二人のあいだで語られるべき大事なことはそれ以上ほとんど残っていないようにも感じられた》
《「事実というのは砂に埋もれた都市のようなものだ。時間が経てば経つほど砂がますます深くなっていく場合もあるし、時間の経過とともに砂が吹き払われ、その姿が明らかにされてくる場合もある」》
《「どんな言語で説明するのもむずかしすぎるというものごとが、私たちの人生にはあります」》
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一際激しく稲妻が光った。
《「でも不思議なものだね」とエリは言った。「何が?」「あの素敵な時代が過ぎ去って、もう二度と戻ってこないということが。いろんな美しい可能性が、時の流れに吸い込まれて消えてしまったことが」》
かつての親友の一人だった女性、今はフィンランドに住む女性が主人公に言ったこのセリフは痛々しく響く。30代の胸を刺す。それへの主人公の、そのときには即答できなかった答えこそ、村上春樹が強く長く心に抱いているテーマなのではないか。
《「すべてが時の流れに消えてしまったわけじゃないんだ」》
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主人公を除く、かつての親友4人の名字には「色」(白、黒、青、赤)の漢字が含まれていることが小説の大事な要素である。と、これは翻訳がちょっと面倒だろうなあと思う。