【読書記録】フレデリック・フォーサイス『悪魔の選択』(角川書店、1979年)

【読書記録】フレデリック・フォーサイス『悪魔の選択』(角川書店、1979年)

82年の世界を舞台とした国際スパイ小説。米ソ対立を背景に、ウクライナ民族主義グループ(クリミア・タタール人も)が事件の中心をなす。英国情報部員、ソ連最高指導者、米大統領らが登場。ソ連崩壊を予言する台詞もある…。

ウクライナ民族主義やその指導者ステパン・バンデラ、クリミア・タタール人の強制移住を盛り込んだ小説は数少ない。現代のウクライナ危機にもつながる歴史。米英ソの外交駆け引きやソ連政治局の内部闘争も読ませる。

※事実関係の細部には多少誤りもあるようだが。

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読書記録『ガリツィアのユダヤ人――ポーランド人とウクライナ人のはざまで』(野村真理、人文書院、2008年)

ウクライナにおけるユダヤ人とウクライナ人の関係史。第二次大戦中のナチスドイツ侵攻下で起きたウクライナにおけるユダヤ人虐殺。現代のウクライナにおける極右勢力と反ユダヤ思想。つまりはウクライナとユダヤ人について知ろうと思うとき、筆頭の参考書となる本だ。

その歴史。

《……西ヨーロッパで迫害に苦しむユダヤ人にとって、ポーランドは希望の地であり、またポーランドの王にとって、ユダヤ人は黄金の山をもたらす人びとであった……》(27頁)

《……一六世紀を通じてユダヤ人をポーランドに呼び込み、さらに彼らのウクライナへの集中を促進したもの、それがバルト海貿易の繁栄と、マグナート(大貴族)やシュラフタ(貴族)によるウクライナ開発である》(29頁)

《……アレンダールは、まずはアレンダ契約にありつき、賃借した領地や特権から必死になって利益を稼ぎだそうとした。……農民にとってのユダヤ人は、種蒔きもしなければ、耕しもせず、農民を食い物にして稼いでいる者たちであり、貴族の領地経営の片棒を担ぐユダヤ人は、農奴制にあえぐ農民の恨みを買わずにはいなかった。一六四八年のボグダン・フメリニツキの反乱は、ポーランドにおいてユダヤ人の楽園時代に終止符を打つ》(34頁)

《……合法的手段によるウクライナ人の権利拡大が何の成果もあげないなかで、一九三〇年代前半はOUN(※ウクライナ民族主義者組織)のテロ活動が最も過激化した時期である。……ポーランドの取り締まりも熾烈をきわめる。……ウクライナ民族主義者をテロへと駆り立てた背景として、当時のウクライナ人の深い絶望感を知っておく必要がある》(139、141頁)

《農民解放以前の東ガリツィアで、ユダヤ人は、ポーランド人の貴族領主によるウクライナ人支配の手先だった。……ポーランド侵略の機会をうかがいつつ、他方でボリシェビキに対する仮借なき戦いを唱えるナチこそ、ヨーロッパにおいて、唯一ウクライナ人の味方となりうる勢力と考えられた》(143頁)

《独ソ戦が始まった一九四一年六月……三〇日……OUNバンデラ派の名でウクライナの独立が宣言される。……ユダヤ人に対するポグロムは、まさしくこのウクライナ人の熱狂と興奮のなかで発生した》(173、174頁) ※ルブフ市内にて

《……ウクライナ民族主義者の擦り寄りにもかかわらず、ナチ・ドイツには、はじめからウクライナの独立を認める気はなかった。……ナチ・ドイツは……ウクライナ人のユダヤ=ボリシェビキに対する憎悪をみずからの水路に引き込み……現地の反共産主義的、反ユダヤ的集団による自己浄化運動のシナリオを実現させた》(182頁)

《一九四三年一月末、ドイツ軍はスターリングラード(ヴォルゴグラード)でソ連軍に敗北し……ドイツ軍は総退却を余儀なくされた。その過程でナチ・ドイツは、占領地に設置したユダヤ人居住区や収容所を撤収してゆく。……そこに残っているユダヤ人を抹殺……》(196頁)

《……ウクライナ人の民族問題は一九四五年で終わったというべきではない。ドイツ軍がウクライナから撤退した一九四四年の冬以降、UPAの闘争相手はもっぱらソ連となる。……UPAがほぼ殲滅されるのは一九五四年頃である》(202頁)

読書記録『リスクと生きる、死者と生きる』(石戸諭、亜紀書房、2017年9月初版)

東北の津波被害の遺族、福島の原発事故で影響を受けた周辺地域の人々、チェルノブイリ原発事故のガイドツアー、福島第1原発の廃炉現場、架け橋となろうとしている元東電社員、福島事故後にツイッターなどで科学的情報を発信した東大教授、福島を語る糸井重里氏ーー。著者が取材で出会った人々の声をできる限り、型にはめずに揺らぎをも捉えようと試みている。

情景描写もうまく、読みやすく考えさせられるノンフィクションに仕上がっている。とりわけ、まさにリスクと生き、死者と生きる被災地の人たちの訥々とした言葉はじわじわと伝わってくる。

一方で、終盤の東大教授・早野龍五氏と、糸井重里氏が登場した章はすんなりとは読めなかった。

「将来子供が産めなくなるのでは」と危惧する福島の若者たちへ向けて、科学的なデータを集めて「何の問題もない」と示した早野氏の取り組みは尊い。全くもって、運良く最悪の事態は免れたと分かる。一抹の危惧は、真摯な取り組みさえも党派的に利用される可能性があることだ。「ほら、あれだけの福島事故があっても問題ないのだから、原発は安心」と。早野氏は「若い世代の不安は『被害』ではないのか」と問うており、これは共感できる。現地ではデータに基づく安心は必須。一方で、日本の他の原発立地地域でこの「安心」が悪用されることを恐れる。

糸井重里氏。メタ的であろうと発言している人物と感じる。AでもBでもなく、それらを止揚した高みに立っているようなモノの言い方をするひと。だが、先の神戸の「世界一のクリスマスツリー」騒動に見られるように、残念ながらそんな高みにある人ではなさそうだ。ぐるっと回って、党派的な俗物と感じる。そんな糸井氏で本書を締めてしまったことは残念だ。全体としては、筆者が自身の思索を深めていくスタイルを取り、良書である。

読書記録『大統領の最後の恋』(アンドレイ・クルコフ、新潮社クレストブックス)

ウクライナの国民作家、アンドレイ・クルコフによる大河小説。一人の男の青少年期、壮年期、黄昏のときを織り交ぜながら描く。その男セルゲイ・ブーニンは大統領になっているのだが、それは話の半分。人生ときどきの喜び、悲しみを丁寧にすくいとり、読者の心を打つ。

《私にはもう他に誰もいなかった。血のつながった者は誰も。私にあったのは、西を向いたり東を向いたりふらふらしてばかりいる(それはもう私にはどうしようもないことだ)この国だけ。それから密かな敵と公然たる敵、そして密かな同志と公然たる同志だけだった。》(619頁)

《血のつながった小さな生き物を愛するのは、国全体を愛するよりもはるかに簡単である。(中略)赤ん坊は普通、愛情に対して愛情をもって応えてくれるのだ。国とは違って。》(631頁)

背景を成すのは、ソ連崩壊後のウクライナの不安定さやオリガルヒの跳梁跋扈、ロシアとの難しい関係などだ。キエフを旅したことのある者には、きっと心懐かしい風景描写もある。いつか、もしまだあるならば、実在するという「ギャラリー〈36〉」へ行ってみたい。

《冬の夜の薄闇の中で凍りついたアンドレイ坂は、いつもより懐かしく思われた。それはまるで凍えた孤児のように、施しか、あるいはせめて同情だけでも恵んでもらえぬかと期待しつつ、じっと身動きせずに横たわっているのだった。》(591頁)DSC_1227

《ウクライナでは大統領というのは国の災いなのだ。もはや子供の教科書では、誰がいつ大統領になったのか記されているだけで、任期中に国が達成した成果については一言も書かれていない。子供たちの目に歴史を触れさせてはならないのだ。とりわけ現代史は。》(375頁)

2014年のウクライナ危機、ロシアによる一方的なクリミア編入を予感させる記述もある。プーチン大統領も端役で実名にて登場する。ケルチ海峡の橋やトンネルの計画を巡る会話にて。

《「何か対策を考えておいてくれ。さもないと奴らは本当にウクライナ領に押し入ってきて、『さあ、これでまた一緒になれましたね!』なんて言い出すぞ!」》(393頁)

邦訳は2006年8月、発刊。この約7年半後、マイダン革命に始まるウクライナ危機が起き、クルコフは革命当時を記録した『ウクライナ日記』(原題はマイダン日記)を書いた。

『オクトーバー 物語ロシア革命』(チャイナ・ミエヴィル、筑摩書房)

今年11月で100年となるロシア十月革命。二月革命から十月革命に至る動きを詳述する。「物語」とうたうが、登場人物が多く、複雑な革命の動きをしっかりと書いているため、歴史書に近い。創作的要素は排除したとあり、ストーリーよりも事実を最優先したという。二月革命後、事態は複雑な経緯をたどった。レーニン率いるボリシェビキの十月革命が必然ではなく、さまざまな革命勢力の中で最後に勝利したに過ぎないと読んだ。《レーニンが特に傑出しているのは、政治的な時機を見きわめるセンスだ》(24頁)

大事なことの一つは、《攻勢が始まる以前からあった厭戦気分は、厖大な数の兵士やその家族や支援者、労働者や農民にすぐに戦争を終わらせなければという意識を生み出し、ボリシェビキに政治的な影響力を与えた》(218頁)、《憎むべき戦争と、数十万の命を奪った破滅的な攻勢への怒りはすさまじかった》(259頁)。

また、反革命に動いたコルニーロフ将軍による8月の「コルニーロフ事件」も重要だ。《コルニーロフの反乱が失敗したことで、政治の舵はまた左に切られた》(310頁)

そして十月革命。劇的な場面。《午前三時三〇分、巨大な影が、薄暗いネヴァ川の水面を切り裂いた。(中略)薄闇から現れ、首都の中心をめざしていくのは、装甲巡洋艦〈アヴローラ〉だった》(375頁)。淡々とした場面。《反乱勢力は歩いて入るというだけの手段で、ミハイロフスキー宮を占拠した》(377頁)。《「臨時政府のみなさんにお知らせする」とアントノフは言った。「あなた方は逮捕されます」》(399頁)

革命に大きな影響を与えた第一次世界大戦。ソビエト政府とドイツは一九一八年三月、ブレスト=リトフスク条約を結ぶ。《ロシアは平和を得るものの、帯状の広大な土地と人口を失う。しかもその大半が最も肥沃な地方で産業と金融の源泉でもある》(410頁)

著者からのメッセージ。《この一九一七年に引き続く希望の、苦闘の、敗北の物語は、過去にも語られたし、未来にも語られるだろう。この物語と、何よりそこから生じるすべての問いかけ――変化は必要か、変化は可能か、どんな危険がつきまとうのか――は我々を超えたはるか先にまで伸び広がっている》(407頁)

《一九一七年の革命は、列車の革命だ。歴史は冷たい金属の悲鳴のなかを進んでいく。側線に入れられたままのツァーリのお召し列車、レーニンの封印列車(中略)。マルクスは言った。革命は歴史の蒸気機関車であると。「蒸気機関車をトップギアに入れて」とレーニンは、一〇月からほんの数週間たったころ、ある私信で自分に活を入れている。「線路の上を走らせつづけろ」》(422頁)

個人的メモとして。《彼(※レーニン)はイヴァル・スミルガあてに手紙を書いた。フィンランドで軍・艦隊・労働者の地域執行委員会の議長を務める、極左ボリシェビキの人物である》(335頁)。スミルガ氏はスターリン時代に粛清される。その娘であるタチアナさんから直接話を聞いたのは貴重な経験だった。

《夕方の街は、奇妙な均衡状態にあった。(中略)地位のある市民たちは、いつものように連れだってネフスキー大通りをそぞろ歩き、レストランや映画館もほとんど営業していた。蜂起の兆しは普段と変わらぬ街の夕暮に隠れていた》(369頁)。10月に入ってのペトログラードの描写。ウクライナ東部ドネツク市における、親露派台頭時と共通している。

2015年9月、モスクワ発オーストリア、チェコ旅行記録

◇1日目、モスクワ―ウィーン

朝、ブヌコボ空港に着いて、「運航中止」と知る。またもトランスアエロの混乱。18時過ぎの便に振り替えとなり、一旦帰宅して再出発。20時過ぎに遅延、振り替えに不備と判明。窓口たらい回しと格闘し、なんとか解決。決して謝ることはない。社会主義の残滓を見る。探知犬が床で転がり、隅のテーブルでウイスキーを飲む人々。その緩さは良いのだが。だらだら過ごし、無事、午後9時過ぎに出発。遠いヨーロッパ。3時間のフライトだが。

オーストリアではあっさりと入国。広々した空港。ホテル手配のタクシー荷物を運んでくれる運転手。ベンツのワゴン。先日のアゼルバイジャン人のおじさん運転手とのギャップを思う。良くも悪くも。今年1月のイタリア以来のヨーロッパ。真夜中に見た街並みだけだが、より繊細でスムースに見える。モスクワが大づくりでガサガサした街と感じる。

◇2日目、ウィーン

駅で難民らしき人々を見かける。ウィーン中心部で威容を誇るシュテファン大聖堂の塔上から街並みを眺める。聖堂の屋根には色瓦で描かれた巨大な双頭のワシ。旧オーストリア帝国の紋章だ。ウィーンは1918年にハプスブルク家が倒れるまでその帝都だった。足元の広場には黒光りした観光馬車が並び、過去の繁栄を想像させられる。ウクライナ人観光客を見かけた。

ザッハーカフェでザッハトルテ。なんだか人手の少ないカフェでぎすぎすしている。無言で美味しいトルテを食べる。王宮へ。正面は馬車の匂い。エリザベータの悲しい生涯を知る。フランツ・ヨーゼフの質実剛健。立ったまま謁見し、鉄製ベッドで寝た。歴史の層がうまく重なった街並み。いかにもヨーロッパな。イタリアよりも整然。シュニッツェルを食べに名店へ。シュニッツェル、芋サラダ、ブドウジュース。薄くてデカイ。からりと揚がっている。下味きっちり、豚はもっちり。されど、デカい。郵便局横から運河へ。落書きもある。気持ちの良い秋晴れ。公園へ。華やかな花屋。タイ人観光客。ベンチの列。地下鉄で帰る。

◇3日目、ウィーン―チェスキークルムロフ

晴れ、肌寒い。西駅にはリュックを背負った中東系の人々。シリア難民だろうか? 歩行者にとって歩きやすい街並み。対して、歩きにくいモスクワ。共産党指導者が車でノンストップで高速移動できるよう設計したからか。午後、ホテルに迎えのワンボックス車が来る。午後4時、車へ。ドナウ川沿いの高速、やがてそれて北西へ。田園風景。ブドウ畑、トウモロコシ畑、ヒマワリ畑。頭を垂れる種つきヒマワリ。ふとウクライナ東部を思う。快調に走る道の先にいずれかの検問があったり、畑に戦車が潜んでいるのではーーとの奇妙な感覚を得る。滑らかな舗装路、きちんと刈り取られた畑。西ウクライナはかつて同じ帝国領だった。歴史のサジ加減一つでどうなっていたか。大陸は繋がっている。国境線は波打際のよう。潮の満ち干や流れでいかようにも変わる。だから恐れも生じる。

午後6時過ぎの夕暮れ時、丘を越え、小さな町村を過ぎて田園地帯の道でするりとチェコへ入った。ニワトリが道を横切る。携帯会社はさっと変わった。気づくと、カーラジオからスラブ語の響き。なだらかな丘陵、森、田園。1日を終えた静かな農村。磔のキリスト像。黄金色の夕暮れ。白金に光る夕陽。たくましい街路樹。日が暮れる間ぎわ、チェスキークルムロフ到着。

ドライバーのきちんとした若者はチェコ人。「ロシア語はダーとニエトしか知らない。多くは英語を話す」という。小さな綺麗な城下町。ホテル、川辺の部屋へ。夜、街へ。東洋人が目立つ。まるで観光の島のよう。グリルの店へ入る。ミックス・グリル、焼きカマンベール、チーズサラダ、鮭グリル、オニオンスープ、黒ビール、イチゴジュースで4000円くらい。イモが多い。

◇4日目、チェスキークルムロフ

小雨、11度。城下町を歩く。雑貨屋、小物屋、骨董屋。ドーナツ的な焼き菓子を食べ歩き、登城。城のガイドツアー。前半の薄暗く重いいかにもボヘミアな趣き。幽霊話も。後半はロココ調のギラギラ。童話のような街並みを眺めた。ここに城塞はないけれど、蛇行する川が天然の堀のようだ。欧州はシリアなどから大量に押し寄せる難民問題に揺れている。豊かな城塞都市の中へ入ろうと、城壁の外に人だかりができているようなイメージがわく。ウィーンでも鉄道駅にちらほらと中東系の難民の姿があった。夕方に中華を上海飯店で。何はともあれ、チェコのビールは美味しいのだ。

◇5日目、チェスキークルムロフ―プラハ

曇り、肌寒い。朝食はヨーグルトを中心に。10時半チェックアウト。バスターミナルを確認。ビール醸造所を回り、城の近くのカフェで美味しいコーヒーとチョコ。街をぶらぶら。中国人、韓国人が多い。アートセンター前で昼のパニーニとレモネード。ホテルでスーツケースを拾い、バス停へ。

午後2時のバス。乗り心地良し。40分でチェスケーブデヨビチェ。古びた味のある駅舎。古本屋などのぞく。午後4時前の列車にする。自由席で広い8人掛けコンパートメントを独占。田園風景を横目に小説を読む。午後6時半にプラハ駅。地下鉄に乗り換え、スムーズにホテル到着。寝室二つのやたらに広い部屋。上が学生たちで少しうるさい。外を歩き、中国人のスーパーでタイとベトナムのカップ麺、サラミ、ビール、ヨーグルト、水。夕食には充分だ。都会についた感触を得る。ローマなどに似るか。ウィーンは少し整然とし過ぎていて、こちらの方が親しみやすい。

◇6日目、プラハ

晴れ。旧市街へ。カレル橋。欧州系の観光客が多い。地下鉄でムステクへ。地下の古本屋でチャペックの犬の本を買う。ポスター屋を冷やかし、ガイドブックにあった居酒屋で昼飯を。鮭サラダ、豚関節のロースト、ビール。ユダヤ人地区を抜けて大通り公園のようなバツラフ広場。紀伊國屋のような大型書店の絵本コーナーを眺める。店内のカフェコーナーで冷えたジュース。

◇7日目、プラハ

晴れ。10時ごろ、近郊蚤の市へ。まさしく蚤の市。スリの顔写真が貼ってある。ロシア語のカタコト風でやりとり。ソ連ものはあまり見ない。ソーセージがうまい。続いてホテル近くの蚤の市へ。シュコダのチェコスロバキア時代のコーヒーカップを買う。

バツラフ広場を通り抜け、ミュシャ博物館へ。後期の民族主義的なものにひかれ、図録など買う。アールヌーボーが好きだ。無駄に優美な曲線。無駄にして無駄がない。河岸近くの文具屋パピロペ。アールヌーボー建築など眺める。路面電車でぐんぐんと河岸を進み、橋も渡って日本食材店へ。かなり広く、日本の古本を扱っている! 夜、ブラックライトシアターへ。ダンス。欽ちゃんの仮装大賞を思い出す。やたら笑う欧米客。文明批評的にタブレットを扱うのは良いが、やや長い。

◇8日目、プラハ

曇り、肌寒い。地下鉄でカレル橋へ。人が多い。絵や手芸の露店、大道音楽、膝をついた若い物乞い。旧市街のだらだら坂道に体力を消耗。カフェでトルデルニクと柔らかアップルパイ、コーヒーを。坂を登りきって城へ。ゴシック聖堂でミュシャのステンドグラスにみとれる。旧王宮の無骨なホール。黄金の小道でブックマークを買う。玩具博物館を楽しむ。橋を渡り、川沿いをユダヤ人地区へ。

お目当の中華はやっておらず、お手軽なチェコ料理店でワインと牛グリャーシュ、チェコの酸味のある芋スープ(シソの実の味)、サラダ。生姜茶。カラシニコフ持ちミーシャのポスターを見かけ、共産主義博物館へ。バツラフ広場近くにあった。思ったよりしっかりとした展示で、その始まりから終わりまでを見せる。現在の北朝鮮のパネルも。力による共産化、秘密警察。ドキュメンタリー。プラハの春、ビロード革命、立ち上がる人々の顔。私服警官の顔。30年ほど前の出来事。骨董屋をのぞき、帰る。

◇9日目、プラハ

曇りのち晴れ。郊外行きはやめる。かつて共産圏だったチェコ。客対応にわずかに往時の気配はあるが、普通の欧州の国。観光旅行ではよほど心しないと会話の機会は少ない。見て取るしかない。午前中、ホテル近くから勇んで骨董屋を巡るが軒並み休み。メトロで移動し、カレル橋近くへ。やはり休み。どうもおかしい。祝日らしい。カヌー大会が開かれている。インドカレー屋で救われる。バターチキンとマンゴージュース。地下鉄でユダヤ地区へ行き、遊覧船へ。地下鉄でホテルへ帰り、寝る。フォーのカップ麺食べて、荷物整理。

◇10日目、プラハ―モスクワ

晴れ。プラハはカフカ、ミュシャ、アールヌーボー建築の印象が強く残った。朝は出かけずゆっくり出発。地下鉄で中央駅へ。そこから空港バス。ほぼ予定通り飛び、帰った。

読書記録、アンドレイ・クルコフ著、『ペンギンの憂鬱』(新潮社、沼野恭子訳)


独立後まもない、今よりも不安定だったウクライナの首都キエフが舞台。売れず、書けない作家ヴィクトルはひょんなきっかけで、有力新聞社の訃報の予定稿を作成する筆者に抜擢される。動物園から引き取ったペンギンのミーシャとの静かすぎる暮らしがにわかに動き出す。

月300ドルの安定収入と引き換えに、訃報の謎がじわじわと侵食し始める。かたや、転がり込んだ小さな女の子ソーニャと、その乳母にやとった若い女性ニーナとの暮らしは疑似家族の様相に。

不穏と平穏のバランスはある日、ついに破れ、ヴィクトルは意外な行動に出る。永遠に続くかに見える日常の脆さ、物事には常に終わりがあることーーをしみじみと描く。

コーヒー、ウォトカ、シャシリク、ダーチャなど、端々にウクライナらしさがある。

目にとまった一文を以下、抜粋。

《ハリコフは凍てつくようだった。(中略)街並みが歩道に重くのしかかり、道行く人たちは、まるで建物のバルコニーが落ちて崩れてくるんじゃないかと心配しているみたいに、先を急いでいた。》

《今の世の中、闘うっていったら、物質的な理想を求めてに決まってる。無鉄砲な理想主義者は、階級ごと死滅したんだ。残ったのは、無鉄砲な現実主義者ばかり……》

《三月になると、大地が暖かくなってきた。律儀な管理人が毎朝外回りの掃除をするように、太陽も毎朝高くそらにのぼっては力いっぱい輝いた。》

読書記録『おろしや国酔夢譚』(井上靖、文春文庫、1974年)と2冊のシベリア関連本

東シベリア・サハ共和国の奥地にて。凍った川と弱々しい太陽
東シベリア・サハ共和国の奥地にて。凍った川と弱々しい太陽

東シベリア・サハ共和国の奥地へ真冬に出張するにあたり、参考となりそうな本を読んだ。ほか2冊は『シベリア追跡』(椎名誠、小学館、1987年)と『マイナス50℃の世界』(米原万里、角川ソフィア文庫、2012年)。

実は3冊はリンクしている。18世紀にロシアへ漂流し、広大な国土を横断した大黒屋光太夫を描いた小説が有名な『おろしや―』。椎名誠は85年にTBSのドキュメンタリー番組で光太夫の足跡をたどった。その記録が2冊目。さらにこの取材の一部で通訳を務めた米原万里が、小学生新聞用に書いた原稿を元にした「幻の第一作」が3冊目だ。

まずは『おろしや―』。光太夫にとって望まない漂流であり、仲間を次々に失う厳しい旅だった(漂流時、彼は三十代)。しかし、光太夫は日本最初の”ロシア特派員”だったのだ。

解説で江藤淳はこう書いた。

《彼があれほど必死に「守」り抜こうとした「自分のもの」とは、いったいなんだったといえるのだろうか? それは、結局、だれに伝えようと思っても伝えられない、彼自身に固有なあの経験にほかならなかったとでもいうほかない》

帰国後、経験を伝えきれなかったにしても、光太夫はロシア滞在中、熱心にロシア語を学び、記録をとり続けた。それがベースとなってこの小説も存在している(『北槎聞略』)。異国を詳細に記録して誰かに届けようとした光太夫は一流の”ロシア特派員”だ。

シベリアに関して言えば、井上靖は欧州の博物学者の記録なども駆使し、当時の状況を描いており、「ロシアを知る」ためにも非常に参考になる。

《ヤクーツクの(略)毛皮はロシア帝国の貴族が着るだけでなく、中国および西欧諸国に輸出された。(略)毛皮は国の有力な財源で、国の歳入の約三分の一を占めていたと言われる》

エネルギー資源国・ロシアはかつて毛皮の帝国だったのだ。テンなど高級毛皮の産地として開発されたシベリアは今、石油やガスの産地として重視されている。

親しみと小さな驚きを感じたのは、苦心の末、1791年に帝都サンクトペテルブルクにたどり着いた光太夫が《ワシリエフ地区の宿舎に落ち着いた》ことだ。約220年後、自分も留学して同じ地区に暮らした。さらに、光太夫は《ワシリエフ地区の(略)大学へ六日ほど通った。大学は(略)赤と白の色で塗られ(略)美しいものであった》。この建物はピョートル大帝の命令で建設されたペテルブルク大学の「十二の学院」だろう。ここにある図書館で時々自習した。

ロシア史と現代を考える材料にもなる。光太夫は時の女帝、エカチェリーナ2世(在位1762~96年)と謁見するに至った。まさに彼女の治世において《一七七二年には(略)第一回ポーランド分割が行われ、更に一七八三年にはクリミア汗国はついにロシアに併呑されるなど、ロシアの南下政策は着々と実を結びつつあった》。ウクライナにかかわる重要な史実である。

光太夫もロシアの思惑と無縁ではない。当時のロシア政府内の命令書が引用されている。

《これら日本人をその故国に送還する機会は、その国と貿易関係を作るきっかけへの期待を抱かせるものと考える。(略)ロシアにとっては諸外国の中で、日本が最も貿易の相手として好条件を具えている(略)》

プーチン政権の極東重視の政策と重なって見える。

続いて『シベリア追跡』。振り返れば、同じ旅について同じ筆者が軽快に書いた『ロシアにおけるニタリノフの便座について』(新潮文庫、90年)が生まれて初めて読んだロシア本だった(小学校高学年のころか)。いかにトイレが汚いか、という話である。幸い、シベリアでもそんなトイレには遭遇しなかった。時代は変わった?

こちらは、ソ連末期のシベリアを書いた真面目な紀行文だ。《ヤクーツクは(略)シベリアの中心的都市になっている。しかしここは一般外国人がまだ自由に入ることはできないのだ》。ちょうど30年後の現在、もちろん自由に旅ができる。

シベリアへの出発前、参考にしたのは写真撮影にかかわるエピソードだ。同行カメラマンは《芝浦のマイナス四十度の冷凍庫に入ってカメラ作動の実験をした》。フィルム・カメラなのでデジカメよりも制約が大きい。《オートフォーカスカメラを常にふところの中に入れておいて、撮りたい時にサッと取りだしてバシャッとやるのが一番手っ取り早い、ということがわかってきた》。ちなみに、マイナス40度の中でカメラはむき出しでも問題なかったが、アイフォーンは内ポケットに入れてもしばしば動かなくなった。

以下のシベリアについての一文は要所を突いている。

《空港の路線案内図は入りくんでいて、ソ連中が空路でびっしりつながっていた。極寒の荒野に鉄道や道路を建設するよりは飛行場を作って飛行機で結んでしまった方が早いし安上がりなのだ。(略)かくてアエロフロートは世界一の航空路規模と保有数を誇る、ということになったわけだ》

もう一つ、ソ連時代ならではの記録。

《巨大なフライパンが目に入った。(略)おみやげに一個購入。これもフライパンの底に二ルーブル五十五コペイカと刻印されている。ソ連中どこでも、そして何年間でもこの商品が出ているかぎりこいつはこの値段で売られているのだ》

これぞまさに計画経済の落とし子だ。

『シベリア追跡』には、1965年に厳寒期のシベリアを踏破した毎日新聞記者によるルポ『世界で一番寒い国』(岡田安彦、講談社)も紹介されている。

最後は『マイナス50℃の世界』。山本皓一カメラマンのカラー写真が豊富で写真エッセーの体裁だ。タイトル通り、イラストも交えてシベリアの極寒の世界と人々の暮らしを楽しくわかりやすく(小学生向けに書かれたので)紹介している。

《「ヤクートは湖と沼と河川の国ですからね」とオフロさん。統計の数字によると、七十万九千の湖と沼、二万三千の大小の河川があります。この無数の湖沼河川は氷が張って、はじめて通ることができるのです。「冬将軍は、川や湖に橋をかける」という古いロシアの詩の意味が、この時はじめて実感をともなって理解できたのでした》

読書記録『スターリン 「非道の独裁者」の実像』(横手慎二、中公新書、2014年)

スターリン像。生地ゴリにて
スターリン像。生地ゴリにて

《現在、歴史の評価はどこの国でも大きな政治的問題を呼び起こしているが、ロシアでは間違いなくスターリンがそうした議論の中心に位置している。(略)スターリンは今もなおロシアと外部世界の間にあって、両者の関係を示す重要な指標なのである》

ロシアにおいてレーニン像はどこの町でも見かけるが、スターリン像を見かけることはまずない。全肯定されないが、全否定もされない。1920年代から30年間に及んだソ連最高指導者としての足跡は、現代にも尾を引いている。

例えば、ウクライナ危機。ソ連指導部による計画的大飢饉とされ、数百万人が死亡した1930年代のウクライナでの「ホロドモール」が、悪化した対露感情の歴史的背景となっている。1944年に実施されたクリミア半島からのクリミア・タタール人の強制移住も、現在のクリミア情勢に影響を与えている。

評価が複雑な理由は、次の一文に尽きる。

《スターリンなしに、ソ連はヒトラー軍との戦争に勝てたのか。フルシチョフが評価を与えなかった一九三〇年代の急進的工業化なくして、ソ連は第二次大戦を戦うことができたのか。この集団化と結びついた工業化は、スターリンがいなかったとしてもソ連共産党は成し遂げたのか。もし、そうだとすると、集団化が出した数百万人の犠牲者はどう評価すべきか。歴史の大きな転換期には、普通の人々が犠牲になるのは不可避なのか。さらに続ければ、戦後のアメリカとの戦いは、一方的にソ連に、つまりスターリンに責任があったと言うのであろうか。(略)ソ連国内ではこうした疑問が次々に湧き起こり、人々の感情をかき立て続けた》

ロシア研究者である筆者(慶応大法学部教授)は、史料が不十分だった時代に書かれた西側の評伝の誤りを指摘しつつ、慎重にスターリンの実像に迫る。少年時代の詩や家族との手紙も引用され、ステレオタイプが排される。

プーチン政権のロシアにも通じると思われるのが、スターリンの世界観、歴史観だ。

《「…資本主義の狼の法則はこうである。お前は遅れて弱い――つまり、お前は正しくなく、したがって、お前を打ち負かして、奴隷にして差し支えないのだ。お前は強い――つまり、お前は正しく、したがって、お前には用心しなければならない、と。だからこそ、我々は、これ以上、遅れてはならないのだ(略)」。ここにこそスターリンの本音があった。彼は帝政ロシアから社会主義国家へ転換しても、強大な国家に脅かされてきたロシアの歴史的伝統は何も変わっていないと考えた》

「脅かされてきたロシア」=「脅かされているロシア」。プーチン大統領の繰り返し語るところである。

戦後(敗戦)70年を迎える日本にとっては以下の記述が見逃せない。

《一九四五年七月のポツダムにおける首脳会議のとき(略)トルーマン(略)は、アメリカは「異常な破壊力を持つ新兵器を手に入れた」と打ち明けた。(略)スターリンが引き出した結論は、ソ連も原爆の開発と対日戦を急がねばならないというものだった。(略)もしアメリカが日本を単独で占領し、日本が現に支配する朝鮮半島と満洲を引き継ぐような事態になれば、東アジアでもソ連の脅威になることは目に見えていた。それを避けるためには、何としてもソ連は対日戦に参加し、これらの地域にアメリカの影響が及ぶことを阻止しなければならなかった》

ソ連の対日参戦の背景にまで、「脅かされているロシア」の思考があったという。奪われる前に奪え、攻められる前に攻めよ――。「恐れ」から発する侵攻である。

また、グルジア人のスターリンがロシアを中心とするソ連で最高指導者まで上り詰めた民族的背景も描いており、興味深い。

《カフカースは長くサファヴィー朝イランとオスマン帝国が支配を競い合う地域であった。しかし、一八世紀初頭からロシア帝国の影響力が及び始めると、三つの帝国と現地の諸民族を巻き込んだ抗争が長年にわたって繰り広げられる舞台となった。(略)南カフカースにおいてキリスト教を信じるグルジア人とアルメニア人は、イスラム帝国の支配に服するよりはロシア帝国の保護を受け入れた方がまだましだと考え、(略)ためらいながらも受け入れていったのである》

共産党でスターリンが頭角を現した強みとして組織管理能力があった点、革命後の内戦期にレーニンが穀物調達に抵抗する農民に対して示した残酷さ――なども印象深い。

スターリン時代に強制収容所があったシベリア・サハ共和国の奥地で読み終えた。

ちくま文庫の『動物農場』を読みながら、2Q14年を思う

※読書記録、『動物農場』(ジョージ・オーウェル、開高健訳、ちくま文庫)

全ての革命は必ず腐敗する。素朴な寓話スタイルだけに、頭をがつんと殴られたように身に染みた。お話はシンプルだ。暴虐な農場主ら人間たちを追い出すことに成功した家畜一同。だが、指導層となった豚たちが「平等原則」を徐々に、決定的にねじ曲げていき――。ロシア革命とその後のソ連などがモチーフとなっているようだ。

腐敗の予兆は「革命」翌日、早くも、静かに示される。絞りたての牛乳がこつぜんと消えるのである。《動物たちは(略)夕方、戻ってきてみると、ミルクは跡形もなく消えていた》。さて、誰のお腹に収まったのか。

ルールは指導層の都合の良いよう恣意的に改変されていく。《(略)掟を読んでもらった。「いかなる動物も、理由なくして他の動物を殺してはいけない」どういうわけか、一節、みんなの記憶が欠落していたのだ》。知らぬ間に「理由なくして」と加筆されていたのだが、もはや以前の条文を誰も思い出せない。

   ◇

この1冊、昨年9月に再編集の上、新刊として出版された。翻訳が、かの開高健である上、「G・オーウェルをめぐって」と題した氏の解説が丸々後半を占める。

開高氏いわく、《これは左翼、中道、右翼を問わず、一切の政治的独裁、あるいは革命というものの辿る運命を描いている。(略)一切の革命のときに登場する諸人物、役割、それらが全部描いてある》。なるほど、と唸る。

今年を振り返ったとき、ウクライナでの三つの場面を思い出さずにはいられなかった。キエフでの政変、クリミア半島のロシア編入と東部2州の独立宣言。当初の熱狂と、その後の停滞とを。

開高氏は日本にも触れる。《日本の場合はやはり自然があまり厳しくないのと同じぐらいに、政治的闘争もさほどの酷烈さはない。日本人なりに酷烈ですけれど、でも諸外国と比べると酷烈ではない》

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さて、今年はオーウェルのもう一つの代表作『1984年』の世界から、または、村上春樹の長編小説『1Q84』の世界から、30年後の2014年である。

《好もうが好むまいが、私は今この「1Q84年」に身を置いている。私の知っていた1984年はもうどこにも存在しない。今は1Q84年だ。空気が変わり、風景が変わった》

『1Q84』の序盤にこんな一節がある。これを引用して今年5月、とある機会に、こうもじって書いてみた。

《好もうが好むまいが、私は今この「2Q14年」に身を置いている。私の知っていた2014年はもうどこにも存在しない。今は2Q14年だ。空気が変わり、風景が変わった》

そして、末尾に《ウクライナの2014年は消滅し、2Q14年になった。どんな展開でもありうると身構えている》と書いた。その後に起きたのが、マレーシア航空機撃墜事件であり、ウクライナ東部の紛争では既に4000人以上が死亡した。

来年もやはり、《どんな展開でもありうると身構え》るしかないのだろう。

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