モスクワの夜、タクシー運転手は語る

夜、町へ。行きのタクシー運転手はキルギス人だった。ルーブル安で出稼ぎのメリットが減り、帰国した仲間も多いという。一方、キルギスがロシア主導のユーラシア経済同盟(旧関税同盟)入りを決めたため、ロシアで商売がやり易くなると話した。故郷に土地を持っているため、そこで収穫される胡桃のロシア輸入を家族で手がける計画を進めているという。「中間業者を通さなくて済むから、いい商売になると思うよ」

ロシア主導の経済同盟が、参加国の一市民に商機をもたらしている。

お国自慢を聞いてみた。やはり第一には有名なイシククル湖。続けて、キルギスにも小さな死海があるという。これは初耳。料理は羊肉や麺や固めのパンなど。話だけではよく分からない。機会を見つけて行ってみたい。

知人と食事して帰りのタクシー運転手はロシア人男性だった。聞けば生粋のモスクワっ子。ソ連時代はピオネール(共産党傘下の少年団)だったよ、と笑う。コムソモール(共産主義青年同盟)に入る前にソ連は崩壊した、という世代らしい。

「街は変わった?」と聞くと、「この10年、特に変わった。都会に疲れた、年金をもらって小さな町で暮らしたい」とボヤく。

日本から来たと話すと、彼は「ロシアは広いが人は少ない」と言う。「ロシアには石油、ガス、石炭があるでしょう」と話をふってみたら、「資源の利益は政権周辺に流れ、国民は貧しい」と暗い顔を見せた。「おや?」と感じ、プーチン不支持かと聞くと「そうだ」と即答。「この15年、いいことは一つもなかった」

プーチン氏の支持率は高いけどと尋ねると、「あれは作られた数字だ。タクシーの客たちも不満を漏らしている」という。「ロシアは産業も育たず、学問もだめ。国民は死んでいくばかりだ……」

反政権志向は中間層ばかりと思っていたので、タクシー運転手から政権批判を聞くとは思わなかった。たまたまこの人がそうなのか、それともジワジワと不満が広がっているのか。

そういえば、過日、知り合いのロシア人女性から「国内で冷蔵庫とテレビの戦いが続いている」との言い回しを教えてもらった。どちらを買うか、ではない。冷蔵庫=食物に代表される市民生活。テレビ=政権のプロパガンダによる愛国ムード。反政権の彼女は「冷蔵庫が勝つ」と断言した。

読書記録『カデナ』(池澤夏樹、新潮文庫)

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ロシアに来てから、「日米関係とは何だろうか」と考えさせられる機会がかえって増えた。色々なところでロシア人に「日本は米国に原爆を落とされたのに、なぜ米国と仲良くしているんだ?」と問われるからだ。

その答えをときどき考える。理由はおそらく複合的だ。戦前からの人的交流▽米国文化のソフトパワー▽戦後の占領政策▽東西冷戦――などが頭に浮かぶ。日米関係史の本を読む必要がある。

先日も日米関係について問われた。頼まれて出演したモスクワのラジオ番組で、沖縄の普天間基地移転問題がテーマに取り上げられたからだ。

「なぜ沖縄の人々は基地移転に反対なのか?」
「なぜ日本政府は押し切ろうとしているのか?」
「沖縄以外の国民はどう思っているのか?」

直球の質問をぶつけられた。

一つ目の問いには、①沖縄に過重な基地負担②米兵による事故や犯罪の頻発③沖縄経済に占める観光の割合の大きさ――の3点を主な理由として説明した。残り二つの問いには、「増大する中国の脅威ゆえに、政府はもとより国民の多くも米軍基地は必要と考えている」と答えた。

十年近く前、まだ北海道で勤務していたころ、仕事で一度だけ沖縄の基地移転問題について調べ、現地で反対運動関係者や識者に話を聞いたことがあった。同じ機会に泡盛の小さな蔵元を訪ねたら、そこの社長に「父親が戦争のとき、北海道出身の仲間に助けられたから」と沖縄料理をごちそうになってしまい、恐縮した。

ふと思えば、遠縁には沖縄の人もおり、離島へ遊びに行ってお世話になったこともあった=写真。本土の米軍基地で働く親戚もいる。ラジオで生煮えの回答をしてしまったこともあり、沖縄の本が読みたくなった。

この『カデナ』はうってつけの小説だった。ベトナム戦争当時の1968年の沖縄を主な舞台に、駐留米軍による「北爆」に抗う4人の物語が描かれる。小さな小さな手弁当のスパイ活動である。そこに沖縄、日本、米国の現代史がぎゅっと濃縮されている。

日本統治下のサイパン島に育ち、激戦を生き延びた嘉手苅朝栄。米軍人の父とフィリピン人の母を持つ沖縄駐留米空軍の女性下士官、フリーダ・ジェイン。彼女は日本軍占領下のマニラを記憶する。基地に出入りするロックバンドの若いドラマー、タカ。この3人の回想によってストーリーがつむがれる。ミニ・スパイ団を統括するのは、朝栄とは旧知のベトナム人、「安南さん」だ。活動に参加するそれぞれの理由が少しずつ明かされてゆき、引き込まれる。

物語に深みがあるのは、北爆を実際に行う飛行機(B52)乗りたちの苦悩や恐怖にも寄り添っているからだ。脱走兵の亡命のエピソードも加えられ、史実が巧みに小説化されている。

米軍基地への沖縄市民の思いは、70年に起きた「コザ暴動」の現場を見つめるタカが胸の内でつぶやく。

《みんなすごく楽しそうな顔をしている。その顔を炎が赤々と照らす。(略)誰もがさんざ嫌な目に合って、アメリカに対してすごく怒っている。でも仕事はアメリカ軍からもらっているし、アメリカ軍はでーじ強いから反抗なんかしようがない。だけど、誰にも知られないでアメリカーをやっつける機会があったら誰だって何かしたい》

日本統治下のサイパンについて、朝栄は回想する。

《南洋では、上から下へ日本人、沖縄人、朝鮮人、チャモロ人、カナカ人という序列がはっきりありました》

戦争と人間について、タカは自分の視点で考える。

《基地はミュージシャンを真面目な性格にする。ここにはすごい緊張感ととんでもないだらしなさの両方があって、それが戦争ということなんだろうと僕は思った。みんな戦争にうんざりだけど、それで緩む奴とむきになって引き締めようとする奴がいる》

脱走兵のマークは言う。

《軍隊には何があっても平気な奴がいる。逆に臆病だから戦場から離れた職場を選ぶ奴がいる。自分は大丈夫と思ってミッションに行って、それを何度も何度もやるうちに燃え尽きるのもいる。俺はその一人らしい》

4歳当時のマニラでの日本軍の蛮行を振り返って、フリーダは想像する。

《空軍にいるとわからないと思う。これは陸軍的な感覚なのよ、きっと。まわりにいるのがみんな敵に見えてくる。市民百人に一人だけゲリラが混じっていると言われると全員がゲリラに思えてくる。百人ぜんぶを殺すまで安心できない》

国のためにスパイ活動を続ける安南さんは言わずにはいられない。

《いえ、私が言いたいのは、愛国心は感情としてどこか気恥ずかしいものだということです。勢い込んで頑張ったりもするけれど、しかし愛国心は例えば恋や友情に比べたら劣等な感情ですよ。どこかに無理がある。そのくせ生命が掛かっている。掛けられてしまう。ウソが混じっているのにそれは言ってはいけないことになっている》

池沢夏樹による沖縄を舞台にした『戦争と平和』といってもよいかもしれない(本家の『戦争と平和』全六巻はいまだ手つかず)。

読書記録『月をめざした二人の科学者 アポロとスプートニクの軌跡』(的川泰宣、中公新書)

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モスクワにいると、毎年のように日本人宇宙飛行士がやってくる。国際宇宙ステーション(ISS)へとカザフスタンのバイコヌール宇宙基地から飛び立つ前に、モスクワ近郊の「星の町」で公開訓練をしたり、記者会見を開いたりするからだ。

1961年4月12日、旧ソ連が成功させた人類最初の宇宙飛行の強烈な残像は、今もロシアや旧ソ連圏各地で目にすることができる。巨大なガガーリン像、壁画、地名、小さな宇宙飛行士の瀬戸物人形――。

モスクワ北部にある宇宙飛行士記念博物館=写真=は、その代表的なモニュメントでもある。先日ここを訪れた勢いで、宇宙開発史をひもとく手ごろな本書を読み切った。米ソ両国でロケット開発を担った科学者2人を主人公に、人間ドラマと政治が入り交じった現代史の一側面が簡潔に描き出されている。

宇宙開発についてあまりに無知だったゆえに「へえ」と思った4点を取り上げたい。

1)先陣を切っていたドイツとフォン・ブラウン

米ソ両大国の宇宙開発競争に先んじて、ナチスドイツの下でロケット開発が突出して進んでいた。英国のロンドンを襲ったミサイル「V―2」が有名である。ドイツの敗戦後、ウェルナー・フォン・ブラウン率いる主要科学者・技術者たちは米国に投降し、新天地で研究開発を継続する。一方、彼らがドイツに残したミサイルを調査・復元するところから、戦後のソ連の宇宙開発もスタートした。

2)不屈の科学者、コロリョフ

ソ連の宇宙開発をリードしたセルゲイ・コロリョフは、スターリン時代の大粛清に巻き込まれ、働き盛りの30代にシベリアで過酷な強制収容所暮らしを強いられた。その後も、気まぐれな国家指導部を説得する「消耗戦を死ぬまで続けることになった」。シベリア送りの際の古傷が晩年の命取りになったことも痛々しい。

3)急ピッチの宇宙開発競争

米ソが競い合った50年代後半から60年代後半の成果は目覚ましい。

1957年10月4日、ソ連が人類初の人工衛星「スプートニク1号」打ち上げ成功
1957年11月3日、ソ連が雑種犬ライカを載せた「スプートニク2号」打ち上げ成功(ライカは宇宙で7日間生存)
1961年4月12日、ソ連のガガーリンが人類初の宇宙飛行
1965年3月18日、ソ連のレオーノフが人類初の宇宙遊泳
1969年7月20日、米国のアームストロングが人類初の月面到達

たった12年間で初の人工衛星打ち上げから月面到達まで至った時代。その高揚は、今では想像もつかない。

ただ、その陰では国家指導部の無理な催促が原因で、準備不足のまま決行された計画も少なくなかったという。アポロ1号のリハーサル中の火災による3人死亡など、計画が生んだ悲劇も克明に記されている。特に、制御を失ったソユーズ1号で大気圏に突入する直前、地球との通信で妻に永遠の別れを告げたコマロフのエピソードは胸に響く。

4)ソ連の月着陸計画

「人類初」を勝ち取った米国のアポロ計画の陰で、ソ連も極秘裏に同様の計画を進めていたことは知らなかった。結局、ソ連は有人による月面到達は断念したが、1970年9月には無人機で月の土のサンプル採取に成功したり、月面車ルナホート1号を11カ月も走らせて2万枚以上の写真を撮らせたりしていた。

「パイェーハリ(出発)!」。54年前、ガガーリンが地球を飛び立った4月12日、今年もロシアは「宇宙飛行士の日」を迎える。

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読書記録『プロになるための文章術 なぜ没なのか』(ノア・リュークマン、池央耿訳、河出書房新社)

米国の編集者が「没にする側の視点」で具体的に論じた文章術。基本的には小説が対象だが、ノンフィクションであっても通じる内容だ。さすが読みやすく、1日で読了した。ダメな見本の例文がそれぞれ極端なのはご愛敬だ。

《物を言うのは人物の行為、行動である。主人公が悪党であることを語るのに1ページを費やすのもいいが、主人公に他人のポケットから20ドル札を掏らせて、あとは読者の想像に任せればたった一文でその事実を見せることができる。(略)映像を彷彿させる印象的な表現を磨くことである》

《個々の章はそれだけで独立した構成単位であり、例えば、そっくり雑誌に引用できる形を具えていなくてはならない》

《大方の場合、情況設定に現実味を添えるのは、カーペットの染み、天井の蜘蛛の巣、ひび割れた窓ガラス、といった極くささいな描写である。何とはなしに気づく程度のわずかな異状や不整を捉えることで情景が目に浮かぶ。(略)五感を動員して情景に雰囲気を添える。物の匂い一つで情景はがらりと変わる(略)音についても同じ(略)光線は日常の現実に劣らず重要である(略)感触もまた極めて雄弁である(略)気候は情景を大きく左右する》

仕事柄、いつも短距離走ばかりである。100メートルか200メートル。先般、手厚いコーチ付きでやっと中距離を走りきった気分でいる。長距離走はどんなものだろうと、この本を手に取った。行動に語らせることや情景描写のコツはあらゆる距離で役立つはずだ。

今は亡き米原万里さんが小説を推敲する際に手に取り、書評で紹介したこともある。

読書記録『エトロフ発緊急電』(佐々木譲、新潮文庫)

色丹島のクリル人墓地にて
色丹島のクリル人墓地にて

真珠湾攻撃を巡る日系米国人スパイの暗躍を描いた冒険小説である。山本周五郎賞、日本推理作家協会賞、日本冒険小説協会大賞を受賞したお墨付き。日系人の置かれた厳しい状況、南京大虐殺、朝鮮人の内に秘めた怒りなどを背景に、物語は厚みを感じさせる。

主たる舞台はタイトルの通り、択捉島だ。現代史を扱った小説として、きちんと史実を踏まえ、千島列島の地誌も織り込まれている。

特に日本政府によって千島列島最北端の占守島から色丹島へと強制移住させられた先住民族クリル人の悲劇が記され、重要な脇役としてクリル人青年も登場する。2年前にビザ無し渡航で訪問した色丹にてクリル人墓地=写真=を見たのを思い出した。

戦中の択捉島の暮らしが丹念に描かれ、ソ連軍による上陸、占領後の様子も最後に少し記されている。その意味では希有な「北方領土小説」でもある。