読書記録『リスクと生きる、死者と生きる』(石戸諭、亜紀書房、2017年9月初版)

東北の津波被害の遺族、福島の原発事故で影響を受けた周辺地域の人々、チェルノブイリ原発事故のガイドツアー、福島第1原発の廃炉現場、架け橋となろうとしている元東電社員、福島事故後にツイッターなどで科学的情報を発信した東大教授、福島を語る糸井重里氏ーー。著者が取材で出会った人々の声をできる限り、型にはめずに揺らぎをも捉えようと試みている。

情景描写もうまく、読みやすく考えさせられるノンフィクションに仕上がっている。とりわけ、まさにリスクと生き、死者と生きる被災地の人たちの訥々とした言葉はじわじわと伝わってくる。

一方で、終盤の東大教授・早野龍五氏と、糸井重里氏が登場した章はすんなりとは読めなかった。

「将来子供が産めなくなるのでは」と危惧する福島の若者たちへ向けて、科学的なデータを集めて「何の問題もない」と示した早野氏の取り組みは尊い。全くもって、運良く最悪の事態は免れたと分かる。一抹の危惧は、真摯な取り組みさえも党派的に利用される可能性があることだ。「ほら、あれだけの福島事故があっても問題ないのだから、原発は安心」と。早野氏は「若い世代の不安は『被害』ではないのか」と問うており、これは共感できる。現地ではデータに基づく安心は必須。一方で、日本の他の原発立地地域でこの「安心」が悪用されることを恐れる。

糸井重里氏。メタ的であろうと発言している人物と感じる。AでもBでもなく、それらを止揚した高みに立っているようなモノの言い方をするひと。だが、先の神戸の「世界一のクリスマスツリー」騒動に見られるように、残念ながらそんな高みにある人ではなさそうだ。ぐるっと回って、党派的な俗物と感じる。そんな糸井氏で本書を締めてしまったことは残念だ。全体としては、筆者が自身の思索を深めていくスタイルを取り、良書である。

読書記録『モスクワの誤解』(シモーヌ・ド・ボーヴォワール、人文書院)

仏女性作家ボーヴォワールの小説『モスクワの誤解』(人文書院、邦訳新刊)を読んだ。老いと夫婦愛がテーマ。ある意味ではR40だ。少なくとも中年にならないと本当の気持ちは分からないだろう。

人は自分自身の老いにあるとき気づく。それは旅の最中であったりする。元教師のフランス人夫妻が、理想と現実が解離した60年代のソ連を訪ねての物語。佳作だった。

読書記録『大統領の最後の恋』(アンドレイ・クルコフ、新潮社クレストブックス)

ウクライナの国民作家、アンドレイ・クルコフによる大河小説。一人の男の青少年期、壮年期、黄昏のときを織り交ぜながら描く。その男セルゲイ・ブーニンは大統領になっているのだが、それは話の半分。人生ときどきの喜び、悲しみを丁寧にすくいとり、読者の心を打つ。

《私にはもう他に誰もいなかった。血のつながった者は誰も。私にあったのは、西を向いたり東を向いたりふらふらしてばかりいる(それはもう私にはどうしようもないことだ)この国だけ。それから密かな敵と公然たる敵、そして密かな同志と公然たる同志だけだった。》(619頁)

《血のつながった小さな生き物を愛するのは、国全体を愛するよりもはるかに簡単である。(中略)赤ん坊は普通、愛情に対して愛情をもって応えてくれるのだ。国とは違って。》(631頁)

背景を成すのは、ソ連崩壊後のウクライナの不安定さやオリガルヒの跳梁跋扈、ロシアとの難しい関係などだ。キエフを旅したことのある者には、きっと心懐かしい風景描写もある。いつか、もしまだあるならば、実在するという「ギャラリー〈36〉」へ行ってみたい。

《冬の夜の薄闇の中で凍りついたアンドレイ坂は、いつもより懐かしく思われた。それはまるで凍えた孤児のように、施しか、あるいはせめて同情だけでも恵んでもらえぬかと期待しつつ、じっと身動きせずに横たわっているのだった。》(591頁)DSC_1227

《ウクライナでは大統領というのは国の災いなのだ。もはや子供の教科書では、誰がいつ大統領になったのか記されているだけで、任期中に国が達成した成果については一言も書かれていない。子供たちの目に歴史を触れさせてはならないのだ。とりわけ現代史は。》(375頁)

2014年のウクライナ危機、ロシアによる一方的なクリミア編入を予感させる記述もある。プーチン大統領も端役で実名にて登場する。ケルチ海峡の橋やトンネルの計画を巡る会話にて。

《「何か対策を考えておいてくれ。さもないと奴らは本当にウクライナ領に押し入ってきて、『さあ、これでまた一緒になれましたね!』なんて言い出すぞ!」》(393頁)

邦訳は2006年8月、発刊。この約7年半後、マイダン革命に始まるウクライナ危機が起き、クルコフは革命当時を記録した『ウクライナ日記』(原題はマイダン日記)を書いた。

読書記録『服従』(ミシェル・ウエルベック、河出文庫)

2022年のパリ。穏健イスラム政党の党首が極右政党党首を破り、大統領になる。仏文学の大学教員である「ぼく」の戸惑いと受容が描かれる。

11月中旬にパリへ出張するのに合わせて読み始めた。現地で、同僚たる駐在員は「フランスは少子化打破に成功したと言われているが、子だくさんのムスリムが増えているのではないか。統計はないけれど」と話した。

本書では、切れ者の若い学者がこんな説明をする。《啓典の民であると自覚し、家父長制を尊重しているカップルは、無神論者や不可知論者のカップルよりも子どもを多く作ります。(中略)人々は、ほとんどの場合が、自分が育てられた価値判断のシステムに忠実であり続けます》(73頁)

また、国内諜報機関のベテラン職員は言う。《出生率を高め、自分たちの価値を次代に高らかに伝える者たちが勝つのです。(中略)経済や地政学などは目くらましに過ぎません。子どもを制する者が未来を制する、それ以外にはありえないのです》(86頁)

なるほど、旧植民地だった中東・アフリカ出身移民系住民(その多くはイスラム教徒)の存在感はパリでは既に大きい。近未来にイスラム教徒が人口の過半数となる日は来るのかもしれない。そんな不安混じりの予感を基に作家は本作を綴ったのだろう。

タイトルの「服従」とは――。イスラムに改宗した有力大学人が「ぼく」を柔らかく説得する。

《イスラームは世界を受け入れた。そして、世界をその全体において、ニーチェが語るように『あるがままに』受け入れるのです。(中略)イスラームにとっては、反対に神による創世は完全であり、それは完全な傑作なのです》(273頁)

あるがままに世界を受け入れるイスラム教に帰依すれば、本質的には悩みは消える。その点について、解説で佐藤優氏は結論づける。「人間の自己同一性を保つにあたって、知識や教養がいかに脆いものであるかということがわかる。それに対して、イスラームが想定する超越神は強いのである」と。

ロシアだったら、と連想した。ロシアでも少子化が止まったと言われるが、その実態はムスリム人口の増加とささやかれる。数十年後の未来、ムスリムがロシア民族を数で上回る日が来る可能性は十分あるのではないか。そのとき、ロシアにムスリムの大統領が誕生するかもしれない。

人口動態は今現在の「当たり前」を押し流す。人口減少の日本は数十年後、一体どんな国になっていることか。

2016年1月、モスクワ発ポルトガル旅行記録

雨が降っても洗濯物は干しっぱなしの大らかさ。犬が多く、のんびりしている。天気で雰囲気は変わるが、素晴らしい旅行先。海の幸、ワイン、オレンジなどの青果。人も良さそう。南国ならではか。旅行者にとっては程よい街の枯れ具合で、ほっとする。ファドも胸に響く。素材の良さもあって、日本食レストランのレベルは高い。陶器も面白い。かつての大帝国だけに見どころは多い。欧州の西の果て。日なたの土地。物価も高くはない。あまり調べずに知らずに来て、思いがけずに良かった。また来たいと思った。

◇1日目、モスクワ―リスボン

リスボンはなかなかに坂の町だった。深く広い湾に面した都市。室蘭、ウラジオストクとはまた少し違って、少し似て。ホテルは城山の中腹にあった。コーヒーをいただくうちに曇り空濃く、やがて雨。土産物屋を覗いてから、ホテルに戻り、傘を借りる。魚モチーフが色々。城へ上がる。入場料17ユーロ。風雨強まる。無骨な古の戦いの城。カフェで魚のキッシュと豆のスープ、エッグタルト、コーヒー(17ユーロ)。雨宿りの孔雀。オレンジ色の屋根の町並みを見晴らす。エッシャーのだまし絵のような城をぐるりと歩く。風で寒いほど。ホテルへ。

シャワーを浴び、3時間も昼寝。町へ出る。1両編成の路面電車がトコトコと走り、雨に濡れた石畳が柔らかく光る。しっとりと温かみのある街。気取らない、擦れていない、居心地が良い。目抜通りの陶器の店。リスボン最古のカフェでエッグタルトとコーヒー。石段の坂道を上り、愛想の良い客引きをかわす。日本食料理店ボンサイへ。寿司、刺身、ほうれん草の胡麻和え、揚げ出し豆腐、たこ焼き、味噌汁。白ワイン。大満足。チップ込みで91ユーロ。タクシー、7ユーロでホテルへ。

◇2日目、リスボン―ラゴス

7時過ぎ起きる。8時朝食。生ハム、サラミ、チーズ、温かいクロワッサン、瓶入りフルーツ、ヨーグルト、イチジクとオレンジの新鮮なジャム、コーヒー、エッグタルト。満足すべき。荷造りして9時、チェックアウト。タクシーを呼んでもらい、30分足らずでオリエント駅へ。11ユーロ。力強いコンクリート打ちっ放しの現代建築。快適な一等席にて10時2分、静かに発車。

1時前、乗り換えのトゥネス近く、オレンジ畑となだらかな丘。放牧された羊。ブロッコリー形の地中海性季候を思わせる木々。ドアを自分で開けて無事に乗り換え。売店のおじさんにホームを確認。鉄橋を渡る犬。重い雲と時々の晴れ間。マクニールの世界史の下を読む。菜の花みたいな黄色の花。ローカル線は少し汚れた感じ。しかし、この国の少しくたびれた感じは心地よい。定刻通り、2時8分に終点のラゴスに到着。曇り空。迎えはなく、レストランへ歩き出す。ソテツ、ブーゲンビリアなど南国の植物。オフシーズンのリゾート地にまたもやって来た。下田を思い出すなど。

倉庫みたいに広く、サッカーマフラーが飾られた海鮮レストラン、Restaurante Adega Da Marina。遅い昼のピークのよう。ビール、ミックスサラダ、スープ、名物のイワシの塩焼き(今は冷凍よ、とのおばちゃん店員の注意あり)、豆イカのオイル焼き、ポテトフライ添え。スープはポタージュに野菜入りで可もなく不可もなく。サラダは野菜の味の濃さを感じる。そして魚介である。冷凍でもイワシの美味いこと! 脳天に刺さる。塩焼きの青魚のハラワタ、その苦味走った旨味、これこそが我がソウルフードだと知らされる。一人三匹を次々と。イカは軟骨を引っ張って抜きながら食べる。ニンニク入りの濃厚な味。しっかりとイカの味。イワシにはレモンや白ワイン酢が合う。ビールをおかわり。エスプレッソで締める。お会計30ユーロはまずまずお値打ちか。

小雨ぱらつく中、腹ごなしもかねてホテルまで2キロの道をスーツケースを引いて行く。ギリシャ・サントリーニ島も思い出す、冬の海辺のリゾート地。打ち捨てられたホテルのようなコンクリート建築も。宿はとても良い。ゆっくりと休む。

◇3日目、ラゴス

9時過ぎ、朝食へ。ブッフェで魚のおかずが美味しい。青魚のマリネ、干しマグロなど。果物は濃厚なパパイア。プールを眺めながら。鈍い曇天。海辺へ。打ち捨てられたリゾートマンション横をまっすぐ。赤土の起伏、断崖、合間の浜。シャワーのように雨が降り出す。黒い貝殻、光る貝殻。突然の波にくるぶしまで浸かる。道路へ戻り、ぶらぶらと灯台まで。すこぶる風が強い。断崖の絶景。奇岩。猫。

ホテルで休憩後、街へ。空腹に耐えかね、スパーでチョコとナッツ。雨風の中、エンリケ航海王子の像と奴隷市場。半分死んだような観光の街。春まで休みのレストランも。ホテル近くの海辺の海鮮レストラン Restaurante o Camilo へ。グリーンワイン(爽やか)、生牡蠣6個、エビやタコ、イカの前菜、ドラドの塩焼き。50ユーロ。台風を思わせる悪天候の日だった。

◇4日目、ラゴス

9時過ぎ朝食へ。果物をたっぷり食べる。ようやく晴れ。廃墟横を通って海へ。砂浜をかける黒い犬。太陽が眩しい。貝を拾う。二枚貝ばかり。紫色の輝く貝も。遊歩道を歩き、ヨットクラブを通り抜け、奴隷市場前広場のカフェでコーヒー。そのまま運河横を歩いてゆく。散歩の犬が多い。線路を越えて、広々と延びる浜へ出た。人懐こい犬がついてくる。また貝を拾う。ああ、貝殻はいわば骨だ。選り分けてお骨を拾い上げている。犬と戯れた後は、木道で猫が転がってきた。なんの暗示だろうか。

歩いて歩いて町へ。打ち捨てられた旧駅舎。おしまいに近づいた市場。オレンジが目印のカフェでジュースと揚げパンのホットドッグ。やはりリードのない犬たち。スパーに寄り、ミカンや水を買う。ホテルで2時間ほど寝る。夜ご飯にとホテルのレストランへ行くも、予約制。近くのピザ屋Pizaria Gato Pardoへ。シーフード・ピザとアラビアータと白ワイン。人気店らしく美味かった(28.45ユーロ)。ティラミスとカモミール茶。オリオン座を見上げつつホテルへ帰る。

◇5日目、ラゴス―リスボン

6時過ぎの列車を目指し、早起き。だが、教えてもらったタクシーに電話してOKと言われたのに来ない。フロントも電話に出ない。軒並み掛けたがタクシーはない。困ったところで時間切れ。国鉄のサイトで簡単に振り替えでき、7時48分発に替えて、1時間前に徒歩で出発。夜明け前の暗い道をスーツケース引いていく。潮の引いた運河を蟹が歩く。

うつらうつらしながら、無事に乗り換え、さらに二駅で宿の近くのサンタアポロニア駅へ。チェックインの2時まで1時間半くらいあったが、まずは宿へ。坂道とガタガタの石畳、傍若無人な洗濯物。幸い泊まるアパートは清掃中で係りの女性の手引きで入れた。階段を上り詰めた屋根裏部屋。広いが天井が低い。下町を一望。

タイル美術館へ歩く途中、腹ペコにて食堂に転がり込む。ほぼポルトガル語のみの世界。魚、あとはあの人と同じのを。スープも。濃い目の味付け、下町の味か。塩のきいたオリーブ、サラダ、パンも並ぶ。ステンレス皿に載った魚はスズキのような白身魚の輪切りの塩焼き、茹で芋添え。レモンをジュッと絞り、塩と脂の旨み。特に背骨まわりだ。魚で育ったのだ。芋もまた良し。牛乳コーヒーつけて、しめて16ユーロか。

てくてくと美術館へ。元は修道院といい、荘厳な礼拝堂あり。イスラムの影響によるタイル文化。ヘタウマ風な人物。文様や風景のタイル。ロシア人カップルも。カフェで休む。暴風。バスが来ないので歩いて行く。丘を越えて傘は痛み、スーパーで夕食など買い物。チキン、サラダ、ミカン、イチゴ、緑ワイン、パテなど。飲んで食べる。

◇6日目、リスボン

朝9時ごろ起床。パンとハム、サラダに白ワイン酢、味の薄いイチゴ、味の濃い汁気たっぷりのミカン、ヨーグルト、チーズ。たっぷりの朝メシ。晴れている。午前中、店巡りへ。丘を下る。缶詰屋コンセルベイラ・デ・リスボアでたくさん(41.74ユーロ)。目抜通りの陶器店で妻がコインブラの焼き物を迷って買う(172.5ユーロ)。

大道芸人や盲目の楽器弾き。凸凹の石畳に水たまり、太陽が反射。アジア人は韓国人観光客が目立つ。日本人はぽつりぽつりとカップル。老舗カフェの路上の椅子でコーヒーとケーキ。黒人のスマートな店員。骨董店でティモールの写真集をめくる。地元の良品を集めた店。地下鉄に乗って、日本食材店・ゴヨ屋。まずまずの品揃えと値段。納豆、小豆、餅、出前一丁、カップヌードル、七味袋、油揚げ。近くの日本食レストランは昼のみ。

地下鉄でリベイラ市場へ。新しくて広いフードコート。迷って、魚の店でエビのニンニクソテー、ライス、白ワイン、生牡蠣2個。どれも美味い。牡蠣は滋味たっぷり。興に乗って、寿司屋で刺身盛りとエビ天、地元料理屋でバカリャウ(干し鱈)のソテーのほうれん草ソース添え。バカリャウの食感と塩味がいい。全部で70ユーロほどか。土産店を覗きチョコなど買う(39.45ユーロ)。豆のような、だが3ユーロ強もするケーブルカーで坂を登る。ファドの劇場へ(二人で32.3ユーロ)。十数人の客に歌い手男女と楽器の禿げたおじさん二人。演歌のようで、腹の底から。歌えたら、弾けたらいいな。帰りはコマネズミのような路面電車で。ドアには無賃乗車の男が。部屋でのんびりする。明日、ロカ岬へ行こうか。

◇7日目、リスボン―シントラ―リスボン

7時過ぎに起き、カレー・ヌードルの朝飯。8時過ぎ、近くの火曜蚤の市(泥棒市)へ。坂道に想像以上にたくさんの店が出ている。骨董、古本、衣類、電化製品、工具など。ポルトガルらしいのは骨董タイル。陶器も多い。植民地の流れか黒人の人々も多い。快晴でまぶしい。あまり声をかけてこない。国民性だろうか。シントラ製という小型のコップを1ユーロで買う。

宿へ戻り、シントラへ。最寄りのサンタアポロニア鉄道駅からオリエンテ駅へ、乗り換えて一本。各駅停車の郊外列車。小一時間でシントラに。駅前の売店兼カフェでトイレを済ませ、バスの周遊券(二人で25ユーロ)を買う。宮殿は早く閉まると聞いたが、バスが来ていたのでロカ岬へ向かう。うねうねとカーブの続く道、小さな電車の線路も。学校が終わった子供たちが続々と。40分ほどで岬に着く。快晴。さほど風はない。広い青い空と、目の前の180度の大西洋。西の端に来た感慨はある。天気も良いので最果ての悲壮感や寂しさはなく、気持ちの良い場所だ。しゃーという波の音と波しぶき。少し散歩して観光センターのカフェでエッグタルトとラテ(8ユーロ)。バスで駅前に戻る。韓国人が多いのは何かのドラマの影響だろうか。

ムーア人の城跡を目指してまたバスに乗る。山に入っていく。5時で入場締め切りのギリギリに滑り込む。日の入りを目指して城を上へ。巨岩が転がる山に築かれた城壁、遺跡。絶景。最上部まで登りきり、夕陽を眺める。空気が冷えてきた。隣の城のシルエットと夕陽の対比が美しい。日が落ちる前に下山し、バスで駅へ。一本逃し、駅のカフェで一服し、次の電車へ。中心部の駅から坂を上って、ミゲルくんの広場を通って日本料理店「ボンサイ」へ再び。昼飯を食べず、飢えていた。おすすめから、アジのたたき、枝豆コロッケ、タコ刺し(辛子味噌)。さらに寿司二つ、天ぷら盛り合わせ。酒は熱燗と梅酒お湯割。堪能する。特にマグロは価値がある。大トロ、中トロ。地中海のマグロは本当に美味い。追加してミニいくら丼と味噌汁。店は混んできた。クリームあんみつにはたどり着けず(136ユーロ)。腹ごなしに歩きと地下鉄で帰る。

◇8日目(最終日)、リスボン―モスクワ

8時過ぎ起き。片付け。10時過ぎ、部屋を空ける。最寄りのサンタアポロニア鉄道駅のコインロッカーにスーツケースを入れ、バスで一気にベレン地区へ。今日も快晴。修道院近くのナタ(エッグタルト)の名店 Torre de Belem へ吸い込まれる。オフシーズンのため行列なし。ナタ計3個と紅茶。パリパリで温かく、クリームはまろやかで優しい味わい。うまい。あっという間に完食(12ユーロ)。

まぶしい太陽を浴びながら海辺のようなテージョ川の川辺へ歩き、発見の碑へ。ザビエルはどれか。広場にはポルトガルの大航海時代の軌跡が地図に示されていた。旧植民地のアンゴラ、ティモール、ゴア、マカオなど。今も黒人系の人々が多い。ブラジルも似た雰囲気だろうか。なにしろ大西洋の対岸だ。続いてベレンの塔。城と要塞を兼ねたような建物。狭い螺旋階段には信号がついている。最上階まで一気に上る。眺めはすごぶる良い。キラキラと光る水面、白波を引いてゆく小船。

三輪タクシーや焼き栗売りを横目に3連結の路面電車へ。かなりのスピード。リベイラ市場へ。バカリャウの塩辛いスープ、ホタテの黒いリゾット(計18.5ユーロ)、本場のサングリア(3ユーロくらい)を堪能。有名なパン屋カネカスでパンとスイートポテトを。地下鉄で一駅の中心部で無印良品リスボン店をのぞく。サンタアポロニア駅へ。ホームのスーパーで急いでミカンと緑ワインを買う(7ユーロ)。列車に飛び乗り、オリエンテ駅へ。地下鉄赤線で空港へ。品ぞろえ豊かな免税店で緑ワイン、ポートワイン二種、お土産ミニボトル、ファドのCD、スプマンテのお酢など買ってしまう(50ユーロくらい)。やや急いで出国し、ゲートへ。さよなら

 

氷点下30度のモスクワから+27度のドバイへ

ドバイ。今もまだ槌音が絶えず、高層ビルが続々建設されていることの驚き。旧市街の市場周辺に残る過去の気配。パジャマ服を着たアフガン、パキスタン商人が精を出す。日本人への客引きの流行語はなぜか「御徒町!」。クリークを往復する渡し舟の心地よさ。ヤシの実のやや酸っぱいジュース。香辛料、ストール、衣類が並ぶ。衣類の店をのぞくと、東レ製のつやがある白布による伝統衣装を見せてくれた。

メトロは旧市街のみ地下を通り、新市街では高架を走る。ゴールドクラスもある。つまりは一等車両だ。分かりやすい階級社会。旧市街にはインド人たちが多い様子。洗濯物が翻る街角。メトロで移動すると次々とどこまでも現れる摩天楼群。そんなに需要はあるのか。マネーはどこからやってくる? ドバイはどこへ向かうのか、繁栄はいつまで続くのか。首長国連邦としては今年独立45年。2020年には万博がある。たとえば50年後はどうなる? なぜテロに見舞われないのか?

ビーチは十分美しく、便利に整備されている。観光面だけで言えば、ドイツなど西欧人(中間層以上のロシア人も)にとってのドバイは、日本人にとってのハワイの位置付けに近いのかなと思う。常夏、海と太陽、一流ホテル群、大規模ショッピングモール、そして今や非常に重要なのが安全性。一方、青果でも何でもほとんどが輸入品だ。味には限界がある。食の名物はナツメヤシ(デーツ)とラクダ乳、ラクダ肉ぐらいだろうか。お金さえ出せば世界中の美味が味わえるとはいえ、物足りない。そして文化面も物足りない。たとえばアラブの男たちが祭事に杖と刀を振る踊りは映像でしか見られない。オペラ劇場は出来ているが、地元のものではない。

ドバイの観光産業はインド人やフィリピン人が支えている。時折、イスラム教のアザーンが響き、アラブの発展都市ならではの面白みもある。メディカル・ツーリズムの看板を見かけた。バリアフリーも進んでいる。

砂漠サファリへ出かけた。インド人ドライバー。「二世代住んでも市民権はもらえないが、働き暮らすのに悪くない」という。やがてラクダの競技場を過ぎる。伝統を保持するためのレースにロボット騎手が使われる。砂漠の保護地区へ。オリックスとガゼルを何度も見た。まさしくランド・クルーズ、砂丘を越えていく。トヨタ車の本領発揮。砂漠の地平線、さらさらの砂、何もなさ。これが観光資源になる。夕陽。後世、自撮り棒が発掘されたら用途は分かるだろうか。

モスクワとは異なる、控えめな夜の明かり。気温差50度。照りつける太陽に気分転換はできた。さすが在留邦人4000人弱(UAE全体)とあって、日本食品店「グルメ屋」は充実の品ぞろえだった。納豆を買って帰る。隣の日本食レストラン「弁当屋」も上々だ。

◇日本外務省ホームページ・アラブ首長国連邦基礎情報より引用
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/uae/data.html

▽面積83,600平方キロメートル=北海道(83、450平方キロメートル)とほぼ同じ
▽人口約945万人(2014年)
▽略史:紀元前3000年頃にさかのぼる居住痕が存在。7世紀イスラム帝国、次いでオスマン・トルコ、ポルトガル、オランダの支配を受ける。17世紀以降、英国のインド支配との関係で、この地域の戦略的重要性が認識された。18世紀にアラビア半島南部から移住した部族が現在のUAEの基礎を作った。1853年、英国は現在の北部首長国周辺の「海賊勢力」と恒久休戦協定を結び、以後同地域は休戦海岸と呼ばれた。1892年には、英国の保護領となった。1968年英国がスエズ運河以東撤退を宣言したため、独立達成の努力を続け、1971年12月、アブダビ及びドバイを中心とする6首長国(翌年2月ラアス・ル・ハイマ首長国が参加)が統合してアラブ首長国連邦を結成した。
▽経済概要:豊富な石油収入を背景に活発な対外投資(特にアブダビ)。同時に石油モノカルチャー経済からの脱却を図っており、製造業やサービス業等産業の多様化に努めている。ドバイは商業・運輸のハブとして発展(ジャバルアリー・フリーゾーンには7,100社以上進出。エミレーツ航空は世界の150都市に運航)。

読書記録『巨匠とマルガリータ』

ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』を読了。スターリン時代のソ連に翻弄され、報われぬまま世を去った作家が発表のあてもなく書き、推敲したという長編である。

当時のモスクワの社会主義国ならではの小市民的生活のあれこれを悪魔の活躍で笑い飛ばしながら、破壊的に物語は進む。かたや、作中の不遇の作家・巨匠と愛人マルガリータの出会いのシーンの静けさは印象深い。そして、消えた巨匠と再会するために魔女となるマルガリータの勇気と大胆さ。キリストと総督を描いた作中小説のパートはやや読みにくさもあるが、最後には一つになっていく。

作家の死後に初めて出版され、世界中で読者を得るに至った。作中の巨匠と重なり、哀しくありつつも、文学の力を感じさせるエピソードである。

ロシア語授業ノート、詩「肖像画」

160423ロシア語授業ノート、詩「肖像画」、解読と試訳

Николай Заболоцкий ニコライ・ザバロツキー

“Портрет” 肖像画

Любите живопись, поэты!

Лишь ей, единственной, дано 

Души изменчивой приметы 

Переносить на полотно.  

詩人たち、絵画を愛せよ!

ただ一つ、絵のみが移りゆく心の兆しをキャンバスへと移し得る

Ты помнишь, как из тьмы былого, 

Едва закутана в атлас, 

С портрета Рокотова снова 

Смотрела Струйская на нас?  

君は覚えているか

過去の闇の中から、繻子に軽く包まれて

ロコトフの肖像画の中から再び、

ストルイスカヤがどんな風に私たちを眺めていたかを?

Её глаза – как два тумана, 

Полуулыбка, полуплач, 

Её глаза – как два обмана, 

Покрытых мглою неудач.  

彼女の双眸は霧のようで、半ばほほえみ、半ば泣いている

彼女の双眸は偽りのようで、失敗の夜霧に覆われている

Соединенье двух загадок, 

Полувосторг, полуиспуг, 

Безумной нежности припадок, 

Предвосхищенье смертных мук. 

結び合わされた二つの謎々

半ば歓喜、半ば恐怖

理性なき優柔さの発作

死の苦しみの予感

Когда потёмки наступают

И приближается гроза,

Со дна души моей мерцают

Её прекрасные глаза.

闇が訪れ、雷雨が近づくとき

彼女の素晴らしき瞳は、私の心の底から明滅する

Любите живопись, поэты!

Лишь ей, единственной, дано переносить приметы изменчивой души на полотно.  

тому (кому) дано : дать 与える ( Богом 神によって )= 天賦

переносить что-то на полотно : キャンバスへ、何かを、移す

приметы изменчивой души : 常に変わる、心の、しるし

詩人たち、絵画を愛せよ!

ただ一つ、絵のみが移りゆく心の兆しをキャンバスへと移し得る

Ты помнишь, как Струйская снова смотрела на нас?

Струйская какая? : Едва закутана в атлас : едва 軽く, закутана = закутанная 包まれる, атлас サテン、繻子

Она смотрела откуда? : 

1) из тьмы былого : тьма 闇(古), былое 過去

2) с портрета Рокотова

君は覚えているか、

過去の闇の中から、繻子に軽く包まれて、

ロコトフの肖像画の中から再び、

ストルイスカヤがどんな風に私たちを眺めていたかを?

Её глаза – как два тумана, Полуулыбка, полуплач, 

Её глаза – как два обмана, Покрытых мглою неудач.  

  
туман 霧 = 注意深く見る必要あり、すぐには判然としない → 招き

обман → 拒絶

мглою : мгла 夜霧

彼女の双眸は霧のようで、半ばほほえみ、半ば泣いている

彼女の双眸は偽りのようで、失敗の夜霧に覆われている

Соединенье двух загадок, 

Полувосторг, полуиспуг, 

припадок безумной нежности : 発作、狂った・理性を失った、か弱さ

предвосхищенье смертных мук : 予期、死ぬほどの苦痛の、мука 苦痛

結び合わされた二つの謎々 (以下、数え上げ)

半ば歓喜、半ば恐怖

理性なき優柔さの発作

死の苦しみの予感

Когда потёмки наступают, и гроза приближается : потёмки 闇, 

Её прекрасные глаза мерцают со дна моей души : мерцать またたく

闇が訪れ、雷雨が近づくとき

彼女の素晴らしき瞳は、私の心の底から明滅する

レーニン廟へ

出先での仕事の帰り、レーニン廟へ寄った。観光の端境期のせいか列もない。人は少ない。廟裏の墓はスターリンのところだけ、花が山になっていた。その辺りは写真を撮っても良い。
廟の中へ、地下へ、胎内へ。薄暗い中、ガラスの棺の中でライトに照らされたレーニン。プラスチックのような質感、白くて硬そう。警備は三人。神聖さ、厳かさの余韻はあるが、そのものではない。緊張感も薄い。もはやソ連ではないから、レーニンは偉人とも言えない。博物館のようだ。
外に出て、アホートヌイ・リャートにはスターリンとレーニンのソックリさんが暇そう。聞けば、記念撮影は300ルーブル。あっけらかんとしている。

  

クレムリン横の無名戦士の墓。この先を少し行くと赤の広場。レーニン廟がある
 

読書記録『犬の心臓』

ブルガーコフの『犬の心臓』(河出書房新社)

を勢いよく読了。ロシア革命から10年経っていないモスクワにおける、ディストピア版の『アルジャーノンに花束を』といった感想。冒頭、野良犬の一人称で進む物語の運びがうまい。革命後の時代の空気も感じられる。

人間もどきの犬、革命家もどきの若者、革命を嘆く医師。混乱の渦は次第にスピードを増し、最高潮の後にピタリと止まる。勢いと自由さを感じさせる小説。70年代になされた水野忠夫氏による
翻訳もずばり、決定版だ。

来年のロシア革命100年をアピールする現代の露共産党の宣伝ビラ