2015年9月、モスクワ発オーストリア、チェコ旅行記録

◇1日目、モスクワ―ウィーン

朝、ブヌコボ空港に着いて、「運航中止」と知る。またもトランスアエロの混乱。18時過ぎの便に振り替えとなり、一旦帰宅して再出発。20時過ぎに遅延、振り替えに不備と判明。窓口たらい回しと格闘し、なんとか解決。決して謝ることはない。社会主義の残滓を見る。探知犬が床で転がり、隅のテーブルでウイスキーを飲む人々。その緩さは良いのだが。だらだら過ごし、無事、午後9時過ぎに出発。遠いヨーロッパ。3時間のフライトだが。

オーストリアではあっさりと入国。広々した空港。ホテル手配のタクシー荷物を運んでくれる運転手。ベンツのワゴン。先日のアゼルバイジャン人のおじさん運転手とのギャップを思う。良くも悪くも。今年1月のイタリア以来のヨーロッパ。真夜中に見た街並みだけだが、より繊細でスムースに見える。モスクワが大づくりでガサガサした街と感じる。

◇2日目、ウィーン

駅で難民らしき人々を見かける。ウィーン中心部で威容を誇るシュテファン大聖堂の塔上から街並みを眺める。聖堂の屋根には色瓦で描かれた巨大な双頭のワシ。旧オーストリア帝国の紋章だ。ウィーンは1918年にハプスブルク家が倒れるまでその帝都だった。足元の広場には黒光りした観光馬車が並び、過去の繁栄を想像させられる。ウクライナ人観光客を見かけた。

ザッハーカフェでザッハトルテ。なんだか人手の少ないカフェでぎすぎすしている。無言で美味しいトルテを食べる。王宮へ。正面は馬車の匂い。エリザベータの悲しい生涯を知る。フランツ・ヨーゼフの質実剛健。立ったまま謁見し、鉄製ベッドで寝た。歴史の層がうまく重なった街並み。いかにもヨーロッパな。イタリアよりも整然。シュニッツェルを食べに名店へ。シュニッツェル、芋サラダ、ブドウジュース。薄くてデカイ。からりと揚がっている。下味きっちり、豚はもっちり。されど、デカい。郵便局横から運河へ。落書きもある。気持ちの良い秋晴れ。公園へ。華やかな花屋。タイ人観光客。ベンチの列。地下鉄で帰る。

◇3日目、ウィーン―チェスキークルムロフ

晴れ、肌寒い。西駅にはリュックを背負った中東系の人々。シリア難民だろうか? 歩行者にとって歩きやすい街並み。対して、歩きにくいモスクワ。共産党指導者が車でノンストップで高速移動できるよう設計したからか。午後、ホテルに迎えのワンボックス車が来る。午後4時、車へ。ドナウ川沿いの高速、やがてそれて北西へ。田園風景。ブドウ畑、トウモロコシ畑、ヒマワリ畑。頭を垂れる種つきヒマワリ。ふとウクライナ東部を思う。快調に走る道の先にいずれかの検問があったり、畑に戦車が潜んでいるのではーーとの奇妙な感覚を得る。滑らかな舗装路、きちんと刈り取られた畑。西ウクライナはかつて同じ帝国領だった。歴史のサジ加減一つでどうなっていたか。大陸は繋がっている。国境線は波打際のよう。潮の満ち干や流れでいかようにも変わる。だから恐れも生じる。

午後6時過ぎの夕暮れ時、丘を越え、小さな町村を過ぎて田園地帯の道でするりとチェコへ入った。ニワトリが道を横切る。携帯会社はさっと変わった。気づくと、カーラジオからスラブ語の響き。なだらかな丘陵、森、田園。1日を終えた静かな農村。磔のキリスト像。黄金色の夕暮れ。白金に光る夕陽。たくましい街路樹。日が暮れる間ぎわ、チェスキークルムロフ到着。

ドライバーのきちんとした若者はチェコ人。「ロシア語はダーとニエトしか知らない。多くは英語を話す」という。小さな綺麗な城下町。ホテル、川辺の部屋へ。夜、街へ。東洋人が目立つ。まるで観光の島のよう。グリルの店へ入る。ミックス・グリル、焼きカマンベール、チーズサラダ、鮭グリル、オニオンスープ、黒ビール、イチゴジュースで4000円くらい。イモが多い。

◇4日目、チェスキークルムロフ

小雨、11度。城下町を歩く。雑貨屋、小物屋、骨董屋。ドーナツ的な焼き菓子を食べ歩き、登城。城のガイドツアー。前半の薄暗く重いいかにもボヘミアな趣き。幽霊話も。後半はロココ調のギラギラ。童話のような街並みを眺めた。ここに城塞はないけれど、蛇行する川が天然の堀のようだ。欧州はシリアなどから大量に押し寄せる難民問題に揺れている。豊かな城塞都市の中へ入ろうと、城壁の外に人だかりができているようなイメージがわく。ウィーンでも鉄道駅にちらほらと中東系の難民の姿があった。夕方に中華を上海飯店で。何はともあれ、チェコのビールは美味しいのだ。

◇5日目、チェスキークルムロフ―プラハ

曇り、肌寒い。朝食はヨーグルトを中心に。10時半チェックアウト。バスターミナルを確認。ビール醸造所を回り、城の近くのカフェで美味しいコーヒーとチョコ。街をぶらぶら。中国人、韓国人が多い。アートセンター前で昼のパニーニとレモネード。ホテルでスーツケースを拾い、バス停へ。

午後2時のバス。乗り心地良し。40分でチェスケーブデヨビチェ。古びた味のある駅舎。古本屋などのぞく。午後4時前の列車にする。自由席で広い8人掛けコンパートメントを独占。田園風景を横目に小説を読む。午後6時半にプラハ駅。地下鉄に乗り換え、スムーズにホテル到着。寝室二つのやたらに広い部屋。上が学生たちで少しうるさい。外を歩き、中国人のスーパーでタイとベトナムのカップ麺、サラミ、ビール、ヨーグルト、水。夕食には充分だ。都会についた感触を得る。ローマなどに似るか。ウィーンは少し整然とし過ぎていて、こちらの方が親しみやすい。

◇6日目、プラハ

晴れ。旧市街へ。カレル橋。欧州系の観光客が多い。地下鉄でムステクへ。地下の古本屋でチャペックの犬の本を買う。ポスター屋を冷やかし、ガイドブックにあった居酒屋で昼飯を。鮭サラダ、豚関節のロースト、ビール。ユダヤ人地区を抜けて大通り公園のようなバツラフ広場。紀伊國屋のような大型書店の絵本コーナーを眺める。店内のカフェコーナーで冷えたジュース。

◇7日目、プラハ

晴れ。10時ごろ、近郊蚤の市へ。まさしく蚤の市。スリの顔写真が貼ってある。ロシア語のカタコト風でやりとり。ソ連ものはあまり見ない。ソーセージがうまい。続いてホテル近くの蚤の市へ。シュコダのチェコスロバキア時代のコーヒーカップを買う。

バツラフ広場を通り抜け、ミュシャ博物館へ。後期の民族主義的なものにひかれ、図録など買う。アールヌーボーが好きだ。無駄に優美な曲線。無駄にして無駄がない。河岸近くの文具屋パピロペ。アールヌーボー建築など眺める。路面電車でぐんぐんと河岸を進み、橋も渡って日本食材店へ。かなり広く、日本の古本を扱っている! 夜、ブラックライトシアターへ。ダンス。欽ちゃんの仮装大賞を思い出す。やたら笑う欧米客。文明批評的にタブレットを扱うのは良いが、やや長い。

◇8日目、プラハ

曇り、肌寒い。地下鉄でカレル橋へ。人が多い。絵や手芸の露店、大道音楽、膝をついた若い物乞い。旧市街のだらだら坂道に体力を消耗。カフェでトルデルニクと柔らかアップルパイ、コーヒーを。坂を登りきって城へ。ゴシック聖堂でミュシャのステンドグラスにみとれる。旧王宮の無骨なホール。黄金の小道でブックマークを買う。玩具博物館を楽しむ。橋を渡り、川沿いをユダヤ人地区へ。

お目当の中華はやっておらず、お手軽なチェコ料理店でワインと牛グリャーシュ、チェコの酸味のある芋スープ(シソの実の味)、サラダ。生姜茶。カラシニコフ持ちミーシャのポスターを見かけ、共産主義博物館へ。バツラフ広場近くにあった。思ったよりしっかりとした展示で、その始まりから終わりまでを見せる。現在の北朝鮮のパネルも。力による共産化、秘密警察。ドキュメンタリー。プラハの春、ビロード革命、立ち上がる人々の顔。私服警官の顔。30年ほど前の出来事。骨董屋をのぞき、帰る。

◇9日目、プラハ

曇りのち晴れ。郊外行きはやめる。かつて共産圏だったチェコ。客対応にわずかに往時の気配はあるが、普通の欧州の国。観光旅行ではよほど心しないと会話の機会は少ない。見て取るしかない。午前中、ホテル近くから勇んで骨董屋を巡るが軒並み休み。メトロで移動し、カレル橋近くへ。やはり休み。どうもおかしい。祝日らしい。カヌー大会が開かれている。インドカレー屋で救われる。バターチキンとマンゴージュース。地下鉄でユダヤ地区へ行き、遊覧船へ。地下鉄でホテルへ帰り、寝る。フォーのカップ麺食べて、荷物整理。

◇10日目、プラハ―モスクワ

晴れ。プラハはカフカ、ミュシャ、アールヌーボー建築の印象が強く残った。朝は出かけずゆっくり出発。地下鉄で中央駅へ。そこから空港バス。ほぼ予定通り飛び、帰った。

2016年8月、モスクワ発オーランド諸島(フィンランド自治領)旅行記録

◇1日目、モスクワ―ストックホルム

順調に昼過ぎ到着。ターミナルの木材部分に癒される。空港エクスプレス、2人で300クローネ。1クローネ=約10円。30分足らずで中央駅。公共交通3日券、2枚で460クローネ。地下鉄一駅でホテル近く。劇場前広場ではマーケット。杏子茸やベリー、青豆。正面がホテル・ヘイマーケット。元デパートという趣きあり。水道水が冷たくておいしい。出発。地下鉄、スルッセン。バスでグスタフスベリへ。郊外の工場跡に博物館など。リンドンベリさんの回顧展、なかなか良かった。リンドバーグは英語読み。カフェで緑の皮付きケーキ。生クリーム。シナモンロールを食べる妻。バスで戻る。王宮の島歩く。ラーメン食べ損ねる。ホテル近くのフードコートでレバノン串焼きとインドカレーの夕食。

◇2日目、ストックホルム

朝から近郊の蚤の市へ。競馬場近くの駐車場にずらりと並ぶが、獲物は乏しい。古着が中心。妻はハリネズミの置物のみ買う。バスと地下鉄で戻る。スルッセンの文具屋で筆箱。無印的な店。王宮の島で、本物のラーメンを食べる。骨董屋へ。リンドンベリさんのカップ、妻は「タヒチ」のカップ。カフェ。ホテルへ。船の博物館目指して路面電車で。6時近くで諦め、美しい島を散策。白鳥など。バスに乗って日本食レストラン、ブルーライト・ヨコハマへ。混んでおり、外席。ビール、蒸し野菜、鯛のカルパッチョ、豚の角煮、鮭の寿司。歴代首相の湯呑み。美味しく、高い。が、満腹に。

◇3日目、ストックホルム―マリエハムン(オーランド諸島)

朝、ホテル前の広場で蚤の市。バターナイフ買う。50クローネ。バーサ船の博物館へバスで。が、行列に驚き、歴史博物館へ。なかなか良い。3日券の最後に路面電車で戻る。老舗カフェやっておらず、エスプレッソカフェ。ヤギチーズのフォカッチャとアイスラテ。ホテルで荷物を受け取り、地下鉄で中央駅。1回35クローネと高い。空港エクスプレス、2人で300クローネ。スムーズに荷物を預け、シェンゲン協定により出国審査もなく。サーブのプロップ機で曇り空を30分飛ぶ。降りたら雨。タクシーを逃す。が、やがて来てホテル・ポマーンへ。きれいで立派。町は静かだ。ギリシャの島のような季節外れ感。ピザの夕食。ヨットを眺め、レストラン船を眺め。

◇4日目、マリエハムン

午前中は雨模様、体調もイマイチ。ゆっくりと出発。土産物屋など眺め、マリア像横を通り、林や渚を散歩。ウサギやクジャク、泳ぐ女性。郵便局へ。切手付きハガキ、妻は郵便ミニカー。銀行の両替は手数料8ユーロなのでやめ、ATMで下ろす。400ユーロ。ホテルで休む。観光案内所でコーカルへのバスなど聞く。船の博物館へ。ロシア人たち。海運の歴史。

ホテルで自転車を借り、快適にオーランド博物館へ。要衝の島の激動の歴史。双頭の鷲。クリミア戦争。非武装の自治領となった後も、冬戦争、継続戦争で一時武装していた。民族、言語、文化。先鋭的な時代も。メルセデスの塩キャラメルチョコ、7ユーロ。コーカルのタクシーを予約。自転車でバス停を確認、さらにレンタカー店へ行くも分からず(ロシア免許証の可否)。快適な自転車専用道路。晴れて気分は晴れる。帆船を眺めて休憩。ホテルへ。6時過ぎ、レストラン・インディゴで夕食。帝政ロシア時代の建物。パンとごまチーズ、バター。ワイン。小エビのオープンサンド。マスのグリル。妻はステーキ。沢山のイモ。満腹。海辺を散歩。明日に備え、荷物を詰める。

◇5日目、マリエハムン―コーカル

ホテル発8時15分、バス8時45分~9時15分、フェリー9時15分発 Langnas→ 11時45分 Kokar(無料)という予定。

予定通りのバス。よく舗装された道。牧草地、羊。豊かさ。クリミアもかくなりえたか? 文化と伝統を守り抜いた人々。フェリーにて島を移動。瀬戸内海のような穏やかなバルト海。小さな島々が無数に。船上はWiFi完備。現在では豊かなフィンランドの自治領だが、かつては戦略的要衝だった。クリミア半島や北方領土を思う。初めは曇りだったが、やがて晴れる。ハクチョウ親子が泳ぐ。ところどころ停泊。ロシア人らしき家族も。島の間を縫うように静かに、時間通りにコーカル島へ到着。

予約したタクシーが来ており、ホテルへ。窓からは静かな水辺の美しい景色。外へ。カフェは休業で、役場隣のスーパー。地元サイダー、リンゴ、イチジク。地元の蜂蜜入り黒パンで昼ごはん。ベンチに腰掛け。妻はミカンと紙ナプキンなど。部屋に置き、出発。タクシー運転手に勧められた北のハムノーを目指す。ハイキングルート。湖。マリモに驚き。トロール伝説。素晴らしいコース。放牧の白い牛たち。やがて迷う。海に出てから道を失い、滑らかな岩場と潅木を踏み越えて進む。子鹿が逃げた。1時間ほどで脱出。ロシアの砲台跡から道に戻る。ハムノーは諦め、快晴の下、戻る。3時間半ほどのハイキング。スーパーでまたサイダーと、蜂蜜を買う。

ホテルのテラスで、フィンランド人のおじさんに声をかけられらる。地元の人たちの休みは6月から7月末のため、すでにオフシーズンだと。船に誘われ、定番というジン・グレープフルーツとフィンランド・コニャックをご馳走に。おじさんたち2人とおしゃべり。島を持っているという。かつてスキー用具K2のプロモーションで東京に行ったことがあるという。特設コースを滑ったとか。母は100歳。もう1人は娘がニュージーランド人と結婚したばかり。ロシアについて。他の国はフィンランドの対露外交を批判的に評論するが、離れた国と接した国では違うということ。ましてや戦争の歴史。戦後の苦労、賠償金と産業発展。ロシア離れはいいことだ、と。ロシアでのメディア受容状況に関心。共にロシアの隣国であるフィンランドと日本。バルト三国とはまた少し違った対露感情が垣間見えた。

7時から絶景のサンルームで夕食。殻つきエビのバターソテー。手づかみでしゃぶり、最高。スパークリングワイン。地元牛肉ステーキ、ポテトグラタン付き。ヨットで寄港し、食事をとるフィンランド人やドイツ人など。違う世界。鹿の家族が歩く。食後、散歩

◇6日目、コーカル―マリエハムン

8時朝食、8時40分タクシー、9時出港。予定通り。快晴。自転車の1日。二カ所、ロッピスことセカンドハンドへ。アラビアの皿。自転車で要塞跡を目指すのはあまりに無謀だった。疲労困憊。夜はピザとコーラをテイクアウト。

◇7日目、マリエハムン

8時起床。曇り。充実の朝食。午前中、レンタカーへ電話。正午前に借りることになる。雨。図書館、ホテル、タイ料理店でパッタイ。レンタカーはマニュアル車しかないと判明し、断念。キャンセル料なし。1時過ぎのバスで帝政ロシア時代の要塞跡、Bomarsundへ。昨日自転車で通った道を駆け抜ける。19世紀に帝政ロシアが建てた大きな要塞跡。蜂の巣状の石組みが残る。ロシア語の石碑。キャンプ場。静かな浜。小さな博物館。

2時間後のバスでスウェーデン時代の城、Kastelholmsへ。4時過ぎに。カフェでおやつ。英語を解さない店の女性。あちこちから古い農村家屋を集めた野外博物館も。城は小ぶりで地味な。鈴なりのリンゴ。甘いのも渋いのも。バス停近くのカフェBakaで地元産レモネード。バス停にはロシア人母娘。5時半過ぎのバスはマリエハムンには行かず。母娘はヒッチハイクで去った。天気は雨のち曇り時々晴れ。バス停で1時間待ち、帰る。インディゴの二階、ビストロへ。タルタルステーキ、マスのスモーク、地ビール、地リンゴジュース。ライムチーズケーキ、メルセデスのチョコ。風呂に入って寝る。体が重い。

◇8日目、マリエハムン―ヘルシンキ

曇り。朝食後、予約したタクシーで8時発。10分で空港に。お代は13ユーロ。観光の魅力に富んだ島だ。地元産農畜水産物、優れたレストラン、ホテル、自然環境、複雑な歴史と遺跡。さらにカジノも。小さな空港ながら居心地の良いカフェがあり、搭乗前の待合ロビーには免税店も。歴史的ビールもあった。ほかに日本人らしいカップルの姿も。初日にピザ店でみかけた若い自転車の2人以来か。

AY580, 10:00 Mariehamn – 10:50 HEL

ヘルシンキには空港快速が登場していた。公共交通2日券。中央駅から地下鉄一駅。Apartmenthotel Citykotiへ荷物を預け、歩く。日本食品店、東京館に興奮。日本食レストラン、寿司バー増えている印象。デパートのカフェで軽食。キッシュとシナモンロールとカフェラテ。物価は安くはない。

マンネルハイム博物館へ路面電車で。港近くの高台にある旧居。ネクタイを締めたおじさん係員たちが迎えてくれる。英語ガイドの一行に加わる。アジア的風貌のロシア人父娘、案内のフィンランド人男性。暮らしたままの調度品だ。個人史と品々の説明が中心。元帥のフィンランド系ではないルーツ。帝政ロシア軍人としての栄達。日露戦争で出世。アジア冒険旅行で日本へも行っている。帰国後、ニコライ二世に直接20分強、進講。ロシア皇室の写真。旭日勲章、ナチスの勲章などなど。巨大な虎の毛皮敷物。一所懸命の英語による説明。「ヨー、ヨー」とフィンランド語が混じる。

港の市場、無料休憩所へ。中国人が多い。トラムで帰る。東京館へ。ラーメン、蕎麦、ラー油、煎餅など買う。スーパーではブルーベリー、ビールなど。夕飯はカップヌードル・カレー味と青豆、ブルーベリー。

◇9日目、ヘルシンキ―モスクワ

朝、ぶらりと散歩。テンペリカウオキ教会へ。中国人と日本人とロシア人が目立つ。妻と合流後、近くのセカンドハンドへ。かつて台湾に住んでピアノを教えていたというおじさんとおしゃべり。ミッケリの出身。母親がかつて馬に乗っていてマンネルハイム元帥の近くを通ったとか。自作のCDをいただく。路面電車で進み、細長い公園での「クリーニング・デー」をのぞく。近くの寿司バー「ウメシュ」でアサヒビールと寿司。なかなか良かった。

路面電車で移動し、駅前へ。風が強い。3時半頃、友人女性二人と合流。大通り公園のクリーニング・デーへ。価値あるものは高い印象。ウクライナの勲章、ピオネールの帽子など売るおじさんとおしゃべり。ニコラエフ出身で造船技術者。空母ワリャーグの改修にも携わったという。売店で買ったソフトクリームは美味いがでかい。4時半、アパートへ。5時、駅へ。空港快速で行く。滞りなく帰国する。

2016年1月、モスクワ発ポルトガル旅行記録

雨が降っても洗濯物は干しっぱなしの大らかさ。犬が多く、のんびりしている。天気で雰囲気は変わるが、素晴らしい旅行先。海の幸、ワイン、オレンジなどの青果。人も良さそう。南国ならではか。旅行者にとっては程よい街の枯れ具合で、ほっとする。ファドも胸に響く。素材の良さもあって、日本食レストランのレベルは高い。陶器も面白い。かつての大帝国だけに見どころは多い。欧州の西の果て。日なたの土地。物価も高くはない。あまり調べずに知らずに来て、思いがけずに良かった。また来たいと思った。

◇1日目、モスクワ―リスボン

リスボンはなかなかに坂の町だった。深く広い湾に面した都市。室蘭、ウラジオストクとはまた少し違って、少し似て。ホテルは城山の中腹にあった。コーヒーをいただくうちに曇り空濃く、やがて雨。土産物屋を覗いてから、ホテルに戻り、傘を借りる。魚モチーフが色々。城へ上がる。入場料17ユーロ。風雨強まる。無骨な古の戦いの城。カフェで魚のキッシュと豆のスープ、エッグタルト、コーヒー(17ユーロ)。雨宿りの孔雀。オレンジ色の屋根の町並みを見晴らす。エッシャーのだまし絵のような城をぐるりと歩く。風で寒いほど。ホテルへ。

シャワーを浴び、3時間も昼寝。町へ出る。1両編成の路面電車がトコトコと走り、雨に濡れた石畳が柔らかく光る。しっとりと温かみのある街。気取らない、擦れていない、居心地が良い。目抜通りの陶器の店。リスボン最古のカフェでエッグタルトとコーヒー。石段の坂道を上り、愛想の良い客引きをかわす。日本食料理店ボンサイへ。寿司、刺身、ほうれん草の胡麻和え、揚げ出し豆腐、たこ焼き、味噌汁。白ワイン。大満足。チップ込みで91ユーロ。タクシー、7ユーロでホテルへ。

◇2日目、リスボン―ラゴス

7時過ぎ起きる。8時朝食。生ハム、サラミ、チーズ、温かいクロワッサン、瓶入りフルーツ、ヨーグルト、イチジクとオレンジの新鮮なジャム、コーヒー、エッグタルト。満足すべき。荷造りして9時、チェックアウト。タクシーを呼んでもらい、30分足らずでオリエント駅へ。11ユーロ。力強いコンクリート打ちっ放しの現代建築。快適な一等席にて10時2分、静かに発車。

1時前、乗り換えのトゥネス近く、オレンジ畑となだらかな丘。放牧された羊。ブロッコリー形の地中海性季候を思わせる木々。ドアを自分で開けて無事に乗り換え。売店のおじさんにホームを確認。鉄橋を渡る犬。重い雲と時々の晴れ間。マクニールの世界史の下を読む。菜の花みたいな黄色の花。ローカル線は少し汚れた感じ。しかし、この国の少しくたびれた感じは心地よい。定刻通り、2時8分に終点のラゴスに到着。曇り空。迎えはなく、レストランへ歩き出す。ソテツ、ブーゲンビリアなど南国の植物。オフシーズンのリゾート地にまたもやって来た。下田を思い出すなど。

倉庫みたいに広く、サッカーマフラーが飾られた海鮮レストラン、Restaurante Adega Da Marina。遅い昼のピークのよう。ビール、ミックスサラダ、スープ、名物のイワシの塩焼き(今は冷凍よ、とのおばちゃん店員の注意あり)、豆イカのオイル焼き、ポテトフライ添え。スープはポタージュに野菜入りで可もなく不可もなく。サラダは野菜の味の濃さを感じる。そして魚介である。冷凍でもイワシの美味いこと! 脳天に刺さる。塩焼きの青魚のハラワタ、その苦味走った旨味、これこそが我がソウルフードだと知らされる。一人三匹を次々と。イカは軟骨を引っ張って抜きながら食べる。ニンニク入りの濃厚な味。しっかりとイカの味。イワシにはレモンや白ワイン酢が合う。ビールをおかわり。エスプレッソで締める。お会計30ユーロはまずまずお値打ちか。

小雨ぱらつく中、腹ごなしもかねてホテルまで2キロの道をスーツケースを引いて行く。ギリシャ・サントリーニ島も思い出す、冬の海辺のリゾート地。打ち捨てられたホテルのようなコンクリート建築も。宿はとても良い。ゆっくりと休む。

◇3日目、ラゴス

9時過ぎ、朝食へ。ブッフェで魚のおかずが美味しい。青魚のマリネ、干しマグロなど。果物は濃厚なパパイア。プールを眺めながら。鈍い曇天。海辺へ。打ち捨てられたリゾートマンション横をまっすぐ。赤土の起伏、断崖、合間の浜。シャワーのように雨が降り出す。黒い貝殻、光る貝殻。突然の波にくるぶしまで浸かる。道路へ戻り、ぶらぶらと灯台まで。すこぶる風が強い。断崖の絶景。奇岩。猫。

ホテルで休憩後、街へ。空腹に耐えかね、スパーでチョコとナッツ。雨風の中、エンリケ航海王子の像と奴隷市場。半分死んだような観光の街。春まで休みのレストランも。ホテル近くの海辺の海鮮レストラン Restaurante o Camilo へ。グリーンワイン(爽やか)、生牡蠣6個、エビやタコ、イカの前菜、ドラドの塩焼き。50ユーロ。台風を思わせる悪天候の日だった。

◇4日目、ラゴス

9時過ぎ朝食へ。果物をたっぷり食べる。ようやく晴れ。廃墟横を通って海へ。砂浜をかける黒い犬。太陽が眩しい。貝を拾う。二枚貝ばかり。紫色の輝く貝も。遊歩道を歩き、ヨットクラブを通り抜け、奴隷市場前広場のカフェでコーヒー。そのまま運河横を歩いてゆく。散歩の犬が多い。線路を越えて、広々と延びる浜へ出た。人懐こい犬がついてくる。また貝を拾う。ああ、貝殻はいわば骨だ。選り分けてお骨を拾い上げている。犬と戯れた後は、木道で猫が転がってきた。なんの暗示だろうか。

歩いて歩いて町へ。打ち捨てられた旧駅舎。おしまいに近づいた市場。オレンジが目印のカフェでジュースと揚げパンのホットドッグ。やはりリードのない犬たち。スパーに寄り、ミカンや水を買う。ホテルで2時間ほど寝る。夜ご飯にとホテルのレストランへ行くも、予約制。近くのピザ屋Pizaria Gato Pardoへ。シーフード・ピザとアラビアータと白ワイン。人気店らしく美味かった(28.45ユーロ)。ティラミスとカモミール茶。オリオン座を見上げつつホテルへ帰る。

◇5日目、ラゴス―リスボン

6時過ぎの列車を目指し、早起き。だが、教えてもらったタクシーに電話してOKと言われたのに来ない。フロントも電話に出ない。軒並み掛けたがタクシーはない。困ったところで時間切れ。国鉄のサイトで簡単に振り替えでき、7時48分発に替えて、1時間前に徒歩で出発。夜明け前の暗い道をスーツケース引いていく。潮の引いた運河を蟹が歩く。

うつらうつらしながら、無事に乗り換え、さらに二駅で宿の近くのサンタアポロニア駅へ。チェックインの2時まで1時間半くらいあったが、まずは宿へ。坂道とガタガタの石畳、傍若無人な洗濯物。幸い泊まるアパートは清掃中で係りの女性の手引きで入れた。階段を上り詰めた屋根裏部屋。広いが天井が低い。下町を一望。

タイル美術館へ歩く途中、腹ペコにて食堂に転がり込む。ほぼポルトガル語のみの世界。魚、あとはあの人と同じのを。スープも。濃い目の味付け、下町の味か。塩のきいたオリーブ、サラダ、パンも並ぶ。ステンレス皿に載った魚はスズキのような白身魚の輪切りの塩焼き、茹で芋添え。レモンをジュッと絞り、塩と脂の旨み。特に背骨まわりだ。魚で育ったのだ。芋もまた良し。牛乳コーヒーつけて、しめて16ユーロか。

てくてくと美術館へ。元は修道院といい、荘厳な礼拝堂あり。イスラムの影響によるタイル文化。ヘタウマ風な人物。文様や風景のタイル。ロシア人カップルも。カフェで休む。暴風。バスが来ないので歩いて行く。丘を越えて傘は痛み、スーパーで夕食など買い物。チキン、サラダ、ミカン、イチゴ、緑ワイン、パテなど。飲んで食べる。

◇6日目、リスボン

朝9時ごろ起床。パンとハム、サラダに白ワイン酢、味の薄いイチゴ、味の濃い汁気たっぷりのミカン、ヨーグルト、チーズ。たっぷりの朝メシ。晴れている。午前中、店巡りへ。丘を下る。缶詰屋コンセルベイラ・デ・リスボアでたくさん(41.74ユーロ)。目抜通りの陶器店で妻がコインブラの焼き物を迷って買う(172.5ユーロ)。

大道芸人や盲目の楽器弾き。凸凹の石畳に水たまり、太陽が反射。アジア人は韓国人観光客が目立つ。日本人はぽつりぽつりとカップル。老舗カフェの路上の椅子でコーヒーとケーキ。黒人のスマートな店員。骨董店でティモールの写真集をめくる。地元の良品を集めた店。地下鉄に乗って、日本食材店・ゴヨ屋。まずまずの品揃えと値段。納豆、小豆、餅、出前一丁、カップヌードル、七味袋、油揚げ。近くの日本食レストランは昼のみ。

地下鉄でリベイラ市場へ。新しくて広いフードコート。迷って、魚の店でエビのニンニクソテー、ライス、白ワイン、生牡蠣2個。どれも美味い。牡蠣は滋味たっぷり。興に乗って、寿司屋で刺身盛りとエビ天、地元料理屋でバカリャウ(干し鱈)のソテーのほうれん草ソース添え。バカリャウの食感と塩味がいい。全部で70ユーロほどか。土産店を覗きチョコなど買う(39.45ユーロ)。豆のような、だが3ユーロ強もするケーブルカーで坂を登る。ファドの劇場へ(二人で32.3ユーロ)。十数人の客に歌い手男女と楽器の禿げたおじさん二人。演歌のようで、腹の底から。歌えたら、弾けたらいいな。帰りはコマネズミのような路面電車で。ドアには無賃乗車の男が。部屋でのんびりする。明日、ロカ岬へ行こうか。

◇7日目、リスボン―シントラ―リスボン

7時過ぎに起き、カレー・ヌードルの朝飯。8時過ぎ、近くの火曜蚤の市(泥棒市)へ。坂道に想像以上にたくさんの店が出ている。骨董、古本、衣類、電化製品、工具など。ポルトガルらしいのは骨董タイル。陶器も多い。植民地の流れか黒人の人々も多い。快晴でまぶしい。あまり声をかけてこない。国民性だろうか。シントラ製という小型のコップを1ユーロで買う。

宿へ戻り、シントラへ。最寄りのサンタアポロニア鉄道駅からオリエンテ駅へ、乗り換えて一本。各駅停車の郊外列車。小一時間でシントラに。駅前の売店兼カフェでトイレを済ませ、バスの周遊券(二人で25ユーロ)を買う。宮殿は早く閉まると聞いたが、バスが来ていたのでロカ岬へ向かう。うねうねとカーブの続く道、小さな電車の線路も。学校が終わった子供たちが続々と。40分ほどで岬に着く。快晴。さほど風はない。広い青い空と、目の前の180度の大西洋。西の端に来た感慨はある。天気も良いので最果ての悲壮感や寂しさはなく、気持ちの良い場所だ。しゃーという波の音と波しぶき。少し散歩して観光センターのカフェでエッグタルトとラテ(8ユーロ)。バスで駅前に戻る。韓国人が多いのは何かのドラマの影響だろうか。

ムーア人の城跡を目指してまたバスに乗る。山に入っていく。5時で入場締め切りのギリギリに滑り込む。日の入りを目指して城を上へ。巨岩が転がる山に築かれた城壁、遺跡。絶景。最上部まで登りきり、夕陽を眺める。空気が冷えてきた。隣の城のシルエットと夕陽の対比が美しい。日が落ちる前に下山し、バスで駅へ。一本逃し、駅のカフェで一服し、次の電車へ。中心部の駅から坂を上って、ミゲルくんの広場を通って日本料理店「ボンサイ」へ再び。昼飯を食べず、飢えていた。おすすめから、アジのたたき、枝豆コロッケ、タコ刺し(辛子味噌)。さらに寿司二つ、天ぷら盛り合わせ。酒は熱燗と梅酒お湯割。堪能する。特にマグロは価値がある。大トロ、中トロ。地中海のマグロは本当に美味い。追加してミニいくら丼と味噌汁。店は混んできた。クリームあんみつにはたどり着けず(136ユーロ)。腹ごなしに歩きと地下鉄で帰る。

◇8日目(最終日)、リスボン―モスクワ

8時過ぎ起き。片付け。10時過ぎ、部屋を空ける。最寄りのサンタアポロニア鉄道駅のコインロッカーにスーツケースを入れ、バスで一気にベレン地区へ。今日も快晴。修道院近くのナタ(エッグタルト)の名店 Torre de Belem へ吸い込まれる。オフシーズンのため行列なし。ナタ計3個と紅茶。パリパリで温かく、クリームはまろやかで優しい味わい。うまい。あっという間に完食(12ユーロ)。

まぶしい太陽を浴びながら海辺のようなテージョ川の川辺へ歩き、発見の碑へ。ザビエルはどれか。広場にはポルトガルの大航海時代の軌跡が地図に示されていた。旧植民地のアンゴラ、ティモール、ゴア、マカオなど。今も黒人系の人々が多い。ブラジルも似た雰囲気だろうか。なにしろ大西洋の対岸だ。続いてベレンの塔。城と要塞を兼ねたような建物。狭い螺旋階段には信号がついている。最上階まで一気に上る。眺めはすごぶる良い。キラキラと光る水面、白波を引いてゆく小船。

三輪タクシーや焼き栗売りを横目に3連結の路面電車へ。かなりのスピード。リベイラ市場へ。バカリャウの塩辛いスープ、ホタテの黒いリゾット(計18.5ユーロ)、本場のサングリア(3ユーロくらい)を堪能。有名なパン屋カネカスでパンとスイートポテトを。地下鉄で一駅の中心部で無印良品リスボン店をのぞく。サンタアポロニア駅へ。ホームのスーパーで急いでミカンと緑ワインを買う(7ユーロ)。列車に飛び乗り、オリエンテ駅へ。地下鉄赤線で空港へ。品ぞろえ豊かな免税店で緑ワイン、ポートワイン二種、お土産ミニボトル、ファドのCD、スプマンテのお酢など買ってしまう(50ユーロくらい)。やや急いで出国し、ゲートへ。さよなら

 

氷点下30度のモスクワから+27度のドバイへ

ドバイ。今もまだ槌音が絶えず、高層ビルが続々建設されていることの驚き。旧市街の市場周辺に残る過去の気配。パジャマ服を着たアフガン、パキスタン商人が精を出す。日本人への客引きの流行語はなぜか「御徒町!」。クリークを往復する渡し舟の心地よさ。ヤシの実のやや酸っぱいジュース。香辛料、ストール、衣類が並ぶ。衣類の店をのぞくと、東レ製のつやがある白布による伝統衣装を見せてくれた。

メトロは旧市街のみ地下を通り、新市街では高架を走る。ゴールドクラスもある。つまりは一等車両だ。分かりやすい階級社会。旧市街にはインド人たちが多い様子。洗濯物が翻る街角。メトロで移動すると次々とどこまでも現れる摩天楼群。そんなに需要はあるのか。マネーはどこからやってくる? ドバイはどこへ向かうのか、繁栄はいつまで続くのか。首長国連邦としては今年独立45年。2020年には万博がある。たとえば50年後はどうなる? なぜテロに見舞われないのか?

ビーチは十分美しく、便利に整備されている。観光面だけで言えば、ドイツなど西欧人(中間層以上のロシア人も)にとってのドバイは、日本人にとってのハワイの位置付けに近いのかなと思う。常夏、海と太陽、一流ホテル群、大規模ショッピングモール、そして今や非常に重要なのが安全性。一方、青果でも何でもほとんどが輸入品だ。味には限界がある。食の名物はナツメヤシ(デーツ)とラクダ乳、ラクダ肉ぐらいだろうか。お金さえ出せば世界中の美味が味わえるとはいえ、物足りない。そして文化面も物足りない。たとえばアラブの男たちが祭事に杖と刀を振る踊りは映像でしか見られない。オペラ劇場は出来ているが、地元のものではない。

ドバイの観光産業はインド人やフィリピン人が支えている。時折、イスラム教のアザーンが響き、アラブの発展都市ならではの面白みもある。メディカル・ツーリズムの看板を見かけた。バリアフリーも進んでいる。

砂漠サファリへ出かけた。インド人ドライバー。「二世代住んでも市民権はもらえないが、働き暮らすのに悪くない」という。やがてラクダの競技場を過ぎる。伝統を保持するためのレースにロボット騎手が使われる。砂漠の保護地区へ。オリックスとガゼルを何度も見た。まさしくランド・クルーズ、砂丘を越えていく。トヨタ車の本領発揮。砂漠の地平線、さらさらの砂、何もなさ。これが観光資源になる。夕陽。後世、自撮り棒が発掘されたら用途は分かるだろうか。

モスクワとは異なる、控えめな夜の明かり。気温差50度。照りつける太陽に気分転換はできた。さすが在留邦人4000人弱(UAE全体)とあって、日本食品店「グルメ屋」は充実の品ぞろえだった。納豆を買って帰る。隣の日本食レストラン「弁当屋」も上々だ。

◇日本外務省ホームページ・アラブ首長国連邦基礎情報より引用
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/uae/data.html

▽面積83,600平方キロメートル=北海道(83、450平方キロメートル)とほぼ同じ
▽人口約945万人(2014年)
▽略史:紀元前3000年頃にさかのぼる居住痕が存在。7世紀イスラム帝国、次いでオスマン・トルコ、ポルトガル、オランダの支配を受ける。17世紀以降、英国のインド支配との関係で、この地域の戦略的重要性が認識された。18世紀にアラビア半島南部から移住した部族が現在のUAEの基礎を作った。1853年、英国は現在の北部首長国周辺の「海賊勢力」と恒久休戦協定を結び、以後同地域は休戦海岸と呼ばれた。1892年には、英国の保護領となった。1968年英国がスエズ運河以東撤退を宣言したため、独立達成の努力を続け、1971年12月、アブダビ及びドバイを中心とする6首長国(翌年2月ラアス・ル・ハイマ首長国が参加)が統合してアラブ首長国連邦を結成した。
▽経済概要:豊富な石油収入を背景に活発な対外投資(特にアブダビ)。同時に石油モノカルチャー経済からの脱却を図っており、製造業やサービス業等産業の多様化に努めている。ドバイは商業・運輸のハブとして発展(ジャバルアリー・フリーゾーンには7,100社以上進出。エミレーツ航空は世界の150都市に運航)。

レーニン廟へ

出先での仕事の帰り、レーニン廟へ寄った。観光の端境期のせいか列もない。人は少ない。廟裏の墓はスターリンのところだけ、花が山になっていた。その辺りは写真を撮っても良い。
廟の中へ、地下へ、胎内へ。薄暗い中、ガラスの棺の中でライトに照らされたレーニン。プラスチックのような質感、白くて硬そう。警備は三人。神聖さ、厳かさの余韻はあるが、そのものではない。緊張感も薄い。もはやソ連ではないから、レーニンは偉人とも言えない。博物館のようだ。
外に出て、アホートヌイ・リャートにはスターリンとレーニンのソックリさんが暇そう。聞けば、記念撮影は300ルーブル。あっけらかんとしている。

  

クレムリン横の無名戦士の墓。この先を少し行くと赤の広場。レーニン廟がある
 

モスクワ、穏やかな週末の記録

土曜日、最近の新聞で見つけたレシピ(毎日新聞、西原理恵子のおかん飯)に基づき、豚肉を載せた和風パスタ風の塩蕎麦を作り、食べる。おいしい。

昼過ぎ、国防省に近い映画館へ出かける。日本映画祭を開催中。ネットでチケットを買っておいた。『旅立ちの島唄ー十五の春』。沖縄の離島、南大東島の女子中学生が主人公の成長物語だ。両親役の小林薫と大竹しのぶがいい味。字幕は上にロシア語、下に英語とややごちゃごちゃしている。

   
 
ロシアで映画を観たのは初めてだったか。エンドロールが流れ出すと拍手が送られ、観客は次々と出て行く。隣のオバちゃんはズビズビと涙交じりの鼻水を拭う。かと思えば、劇中のセリフに一言あった沖縄本島の不発弾に反応し、「あれは米国が落としたものだろ」と友人に話す強面の男性も見かけた。

映画館を出てすぐ、地下鉄を乗り換え、とある日本人の集まりへ。あっという間に夜は更けた。

日曜日、朝食後はやばやと車で出かける。ダニロフスキー市場へ。サーカス劇場のようなドーム屋根の市場は改装なってなかなかにお洒落。老若男女の売り子さんたちはおそろいのハンチングなど今風の制服を着せられている。まだ、てらいがあるふうなのが良い。

青果鮮魚生肉に加え、中央アジアのスパイス(店主のあちら系のおじさんは頑固にスーツと帽子姿)やら日本食材やら。外周には各国料理のレストランやカフェがあり、想像以上に魅了的だった。トイレもきれいで観光スポットたりうる。

本日は市場敷地内で蚤の市も開催され、摂氏一度前後と寒かったが、小さなガガーリン・バッジと昔の絵葉書を買う。屋台のチェブレキ(羊肉入りの薄いパイ、タタール料理)を立ち食いしてから、移動。連日の映画館。きょうは西原理恵子原作の『上京ものがたり』。漫画家デビューするまでの自伝的物語。下ネタがロシア人観客に受けていたのが印象的だった。華々しくなくとも東京で夢の一歩を踏み出す汗と涙の青春ストーリーは悪くない。映画館で日本の映画を観たのは何年ぶりだったろう。
   
 夜、これまた久しぶりに湯船に入る。魂が湯気と共にゆらりと抜けかけた。

Сахалин – 70 лет после войны

Сахалин – 70 лет после войны

Доносится глухой звук барабана: там-там-там…. Он рождается из бревна, подвешенного на тонких деревянных сваях, и не успев появится на свет, почти сразу улетает в высокое голубое небо. За много лет это первое культурное мероприятие, организованное в местном краеведческом музее нивхами – малочисленным коренным народом, проживающим на Сахалине. Нивхов сейчас на острове осталось всего 2300 чкловек.

“Мы, нивхи, хотим показать, что мы до сих пор существуем”, говорит 67-летняя Антонина Начёткина, активистка и правозащитница, занимающаяся сохранением культуры и защитой прав коренного населения острова. На ней традиционный красный нивхский костюм.

Нивхи, которые и в наши дни, как и раньше, живут в низовьях Амура и на Сахалине, традиционно занимались рыбной ловлей и охотой и пребывали в полном согласии суровой природой этих мест.

Но в новое время, в течение последних ста лет, нивхи не раз становились жертвами непростой политичесокй ситуации между Японией и Россией.

По окончании японско-русской войны в 1905 году Сахалин был разделён по линии пятидесятой параллели. И так же между двумя странами были разделены населяющие остров коренные народы, такие как нивхи, ульты и др.

В конце Второй мировой войны как Япония, так и СССР использовали их для шпионажа. Обе страны, каждая на своей территории, проводили политику ассимиляции, результатом которой стало постепенное угасание традиционной самобытоной культуры.

“Сейчас даже дома у нас редко можно услышать родной язык. И многие традиции уже утрачены” — с сожалением замечает Антонина Начёткина.

С начала восьмидесятых в некоторых школах начали преподавать нивхский язык. Появились и газеты на этом языке. Но пока о полноценном восстановлении культуры говорить ещё рано. На севере Сахалина, где в основном и проживают представители коренного населения, работы значительно меньше, поэтому молодёжь в поисках лучшей жизни стремится перебраться в Южно-Сахалинск, самый большой город на острове. И с каждым годом этот поток становится всё больше.

Пятидесятилетняя нивха Марина Крагина 4 года назад начала по книгам учиться традиционному искусству работы с такими материалами как рыбья кожа и шкура нерпы. “В какой-то момент я почувствовала зов предков” — говорит художница. Она с гордостью держит в руках свои работы, украшенные анималистичным нивхским орнаментом, изображающим медведей, сов и других животных.

К моменту окончания Второй мировой войны на юге Сахалина жили около четырёхсот тысяч японцев. После начала советской оккупации большая часть из них переехала на основную территорию Японии.

Остались на острове – не всегда добровольно – только женщины, вышедшие замуж за корейцев и русских, и те специалисты, которых власть пыталась удержать разными способами, в том числе обещаниями достойных условий работы и жизни. Всего их набралось около нескольких сотен.

При этом эти люди жили надеждой снова увидеть родину и близких, но настоящее их возвращение стало возможным только с распадом СССР после 1991 года. Сегодня около двухсот японцев, в основном представителей второго и третьего — уже вполне обрусевшего — поколения нации, которая ранее господствовала на Сахалине, тихо проживают на юге острова, не привлекая к себе особого внимания.

“В советское время мы жили очень скромно. И самое большее, что могли себе позволить, это рис с карри” — вспоминает шестидесятилетняя Айко Боку, в девичестве Нагано, которая родилась уже после войны.

Её родителти, которые приехали с Хоккайдо и работали в совхозе, сумели воспитать и вырастить восьмерых детей. Мама часто рассказывала детям японские сказки, такие, например, как “Момотаро”, но никогда не упоминала прошедшей войне.

Боку-сан родилась и всю жизнь живёт на Сахалине, сначала советском, а потом и российском, том самом Сахалине, который раньше был территорией Японии и назывался “Минами-Карафуто”. Но проблем с тем, что она японка по национальности, у неё никогда не было. Сейчас она работает бухгалтером. Её муж — кореец. У них, двое детей. И уже есть внуки. “Война отошла в далёкое прошлое. У нас в семье обе культуры — и японская, и корейская мирно сосуществуют” — говорит она с улыбкой.

「消えた大国」を探す日曜蚤の市

   
 

モスクワ中心部を囲む環状通り「サドバエ・カリツォー」の右上(北東)辺りにあるバウマン庭園 Сад им. Баумана できょう、初めての日曜蚤の市が開かれた。今後、毎週日曜の正午から午後5時までの定番イベントになるという。

トロリーバスを乗り継いで出かけた。なにしろこの環状通りはモスクワにとって重要な目抜通りの一つなので、おそらくスターリン時代に建てられた重厚な建物が並ぶ。

古い教会の向かいにあるバウマン庭園は程よい広さだ。散策路に沿って、思い思いに品物を並べた「店」がずらり。売り手はプロとアマチュアが混ざっており、ちゃんとした売り台やテントもあれば、シートを広げただけの人もいる。場所の良さと初回ということもあってか、大盛況だった。

さて、この2年間にそれなりに何度も蚤の市を歩いてきたので、何となくの相場観は身についた。蚤の市歩きは狩猟・採集の一種なので、お値打ちな掘り出し物探しが醍醐味。「これ、いいな」と思っても、高ければ買わない。まだ先は長いのだ。

ロシアでの蚤の市の面白さは、旧ソ連の品々を手にとれることにある。創設から約70年で消滅した巨大国家の破片といってもよい品々だ。そして共産主義国のリーダーを自認したゆえに、小さな骨董品にもしばしば「国家の意思」が反映されている。例えば、モチーフとして多用される赤い星や宇宙飛行士などだ。

もう一つの面白さは人とのやりとり。「これはいくらですか?」の質問から切り出し、品物の年代や生産地を尋ねる。欲しくなったら値切ってみる。日本から来たと知ると、また違った話をしてくる人もいる。他の人のやりとりを見るのも興味深い。奥さんに財布を握られている男性、うっかりグラスを割ってしまった客と売り手の緊迫した会話ーー。

きょう、買ったもの。

ソ連時代の絵本3冊とマヤコフスキーの詩の本1冊。ソ連邦15共和国がテーマの絵葉書セット2種類。カラスを擬人化したイラストのついた食器セット。ソ連海軍がテーマのボードゲーム。全部合わせて2千円でお釣りがくるくらい。

どんどんモノが増えていって、さて先々どうしましょうか?

ウラジーミルさんとウォトカで乾杯

がっちりした体格にスキンヘッドで見るからに強面なウラジーミルさん。日曜の午後、ひょんな縁で家に招待された。
これが圧巻だった。

彼はビールや酒に関するグッズのコレクターで、家中にロゴ入りグラスなど自慢の品々がびっしりと並ぶ。居間には、業務用のガラス張り冷蔵庫とビールメーカーのテーブルセットが配置され、広告灯が華やぎを添える。まるでビアホールのよう。

廊下、寝室、台所までコレクションを案内してくれて、こちらが興奮して「まるで博物館みたい」と褒めると、ウラジーミルさんはうれしそうに頬を緩めた。

気づけば居間には食事がセットされている。ケーキを持って行ったが、そういう雰囲気ではない。冷えたビールも注がれ、おもむろにウォトカの瓶がテーブルに登場。北の街アルハンゲリスク製の1本。コレクション話を聞きながら、冷えたビールをごくり。続いてウォトカで乾杯。

ウラジーミルさんは「3回は乾杯しなきゃ」というので、「分かりましたよ」と杯を重ねた。「人は呑まなきゃ分からない」そうである。ここまでは良かった。もてなし好きのウラジーミルさんは友人に次々と電話をかける。やがて到着したオクサナさんはギターを抱えてコサックの歌を弾き語り。絶品。

一緒に登場したもう一人のウラジーミルさんはロシア革命までの銀製タバコ入れのコレクターだという。奥さんが見せてくれたダーチャの写真はプール付きの豪邸で只者ではなさそう。

問題はウラジーミルさんが二人に増えたことにあった。

強面ウラジーミルさんは「ウォトカ3杯でOK」だったのだが、新たにウラジーミルさんが増えた以上、乾杯しない訳にはいかない。一杯の量を減らしてはもらったが、そこはアルコール度数40度の酒。5杯、6杯。ウラジーミルさんの奥さんに誘われて、歌に合わせて立って踊って、酔いは回って7杯、8杯。

留守番の犬の晩御飯もあるので、とそのあたりでお暇した。みんな驚くほど良くしてくれた。ロシアに住んでいても地元の人とウォトカを飲み交わす機会はそうはない。ビジネスマンはまた違うのだろうけれど。そして一夜が明け、月曜日は夕方までほとんど倒れていた。

モスクワでもらった北朝鮮の人形

  

モスクワ の北朝鮮レストラン「КОРЁ コリョ」でウェイトレスさん(北朝鮮女性)から人形を貰った。「開店5周年の記念品です。5個集めたらお酒ひと瓶プレゼント。8月30日が記念日なのでぜひご来店を」と笑顔。近くて遠い隣国を思う。

人形の袋には「朝鮮ー平壌」とハングルで書いてある。北朝鮮で手作りされた土産物と思われる。どんな人たちがどんな環境で作ったのだろうか、と満腹の頭でぼんやりと。日露の戦後が終わっていないのと同様に、日本と北朝鮮の戦後も終わっていない。

それはさておき、牛肉ユッケを久々に食べたら、何かが違う。辛味ダレが多い。調理師が交代したのだろうか。だとしたら前の調理師はどうなったのだろうか。そういえばウェイトレスも一部入れ替わってないかーー。色々と気になってしまう店である。