読書記録『グッバイ、レニングラード』(小林文乃、文藝春秋)

ノンフィクション『グッバイ、レニングラード    ソ連崩壊から25年後の再訪』(小林文乃、文藝春秋)を読了。TBS特別番組の子供特派員として2週間、91年夏のソ連に滞在した筆者が2016年、番組制作でロシアを再訪する。
レニングラード封鎖とショスタコービッチの交響曲が主題だが、そこに新味は薄い。最近の日本人作家の本を含めて引用多数で、この本を新たに出す意味は希薄だ。ソ連時代の体験を描く私的回想は面白い。ただ、それとて米原真理を思い浮かべれば、月とすっぽんと言うべき。

 

取材過程も織り込むことで分量を稼ぎ、テレビ番組を作ったついでに完成した1冊という印象が強い。やや辛口の評価になってしまったが、無理やり必然性を作り、過度に意味付けしている部分が多かった。

読書記録『リスクと生きる、死者と生きる』(石戸諭、亜紀書房、2017年9月初版)

東北の津波被害の遺族、福島の原発事故で影響を受けた周辺地域の人々、チェルノブイリ原発事故のガイドツアー、福島第1原発の廃炉現場、架け橋となろうとしている元東電社員、福島事故後にツイッターなどで科学的情報を発信した東大教授、福島を語る糸井重里氏ーー。著者が取材で出会った人々の声をできる限り、型にはめずに揺らぎをも捉えようと試みている。

情景描写もうまく、読みやすく考えさせられるノンフィクションに仕上がっている。とりわけ、まさにリスクと生き、死者と生きる被災地の人たちの訥々とした言葉はじわじわと伝わってくる。

一方で、終盤の東大教授・早野龍五氏と、糸井重里氏が登場した章はすんなりとは読めなかった。

「将来子供が産めなくなるのでは」と危惧する福島の若者たちへ向けて、科学的なデータを集めて「何の問題もない」と示した早野氏の取り組みは尊い。全くもって、運良く最悪の事態は免れたと分かる。一抹の危惧は、真摯な取り組みさえも党派的に利用される可能性があることだ。「ほら、あれだけの福島事故があっても問題ないのだから、原発は安心」と。早野氏は「若い世代の不安は『被害』ではないのか」と問うており、これは共感できる。現地ではデータに基づく安心は必須。一方で、日本の他の原発立地地域でこの「安心」が悪用されることを恐れる。

糸井重里氏。メタ的であろうと発言している人物と感じる。AでもBでもなく、それらを止揚した高みに立っているようなモノの言い方をするひと。だが、先の神戸の「世界一のクリスマスツリー」騒動に見られるように、残念ながらそんな高みにある人ではなさそうだ。ぐるっと回って、党派的な俗物と感じる。そんな糸井氏で本書を締めてしまったことは残念だ。全体としては、筆者が自身の思索を深めていくスタイルを取り、良書である。